注:このSSは別の場所にかつて掲げたSSを整えたものです。
申し訳程度に下のSSの続編ですがこのSS単体でもお読みいただけます。
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雨が止んで、虹でも出そうなくらいにキラキラと輝く空を見上げる。
俺は、ボスゴドラ。
無駄に硬く出来たこの体表面の鋼は、雨上がりの雫が朝日を吸って放つ光を反射して鈍く光っていた。
明るく光る洞窟の外と自分の体とは裏腹に、今の俺はお世辞にも気分が良くなかった。
先の来客の雨乞いの効果が切れて太陽に居場所を追われた黒雲は、腹いせに俺の心に立ち込めている。
雨こそ降っていないのが幸いだが、さっきからずっと心がモヤモヤしているのだった。
それもこれも、さっきの客――親友のバンギラスとその彼女らしきグレイシアのせいだ。
理由を押し付けてるだけかもしれないが、多分そう。
時間でいうとまだまだ短い付き合いの割に、その仲睦まじい様子は俺の心の急所にクリーンヒットして……なんて。
そんなことを考える自分は、もしかするのかもしれない。
「……ちげぇよ。今更寂しいとか」
言霊とかいう言葉もあるし、と口に出してみたら、余計に悲しくなっただけだった。
「はぁ……羨まし……いや、何言ってんだ俺」
それ以上考えることをやめて、俺は身体的にも精神的にも疲れきった体をその場に横たえる。
――ひらり。
背中に何かが触れる。
「……あ?」
それは、洞窟の硬い床とも雨除けの大きな葉っぱとも違う、肌触りの良さを持っていた。
少し触れただけなのに、そのふわりとした感触は延々と触れた場所に残留している。
この何もないところにこんな柔らかいものあったか?
もしかしたらあいつらの忘れ物かもしれんな。
あいつらが何かを持ってた気はしないが。
起き上がるのが面倒で、俺は苦労してその場で寝返りを打った。
すると、目の前にいたのは――
「――ふぃ~あっ……!?」
体付きはしなやかなはずなのにどことなくふんわりした印象があるのは、周りで舞っているそのリボンのせいか。
何より、くりっとした水色の目、ぴょこぴょこという擬音が似合いそうなピンクの耳なんかは美しいというよりは可愛らしいというのが正しい。
(……ニンフィア、だな。この辺りに住んでた記憶はねえけど?)
ぽかんと口を半開きにして、目を見開いて俺を見るそいつは、固まっていた。
「……俺が怖いのは見た目だけなんだ。別に何もしねえから行っていいぞ」
俺と目が合った瞬間に、恐怖で固まるやつは初めてではない。
どころか、初対面の大半がそうだ。
ボスゴドラという種族、そしてその中でも大きめの体と厳つい顔の俺だから、もう仕方ないと割り切っている。
今回も同じように怖がられているのだと最初は思った。
だからいつもの通りなるべく怖がらせないように、逃げてもいいと言っておくのだ。
だが、なんとも様子がおかしい。
もじもじと落ち着きなく足を動かしているくせに、少しも逃げようとはしないのだ。
足に足を重ね、その様子を見ているだけ。
時々こちらを見上げては、目が合うと慌てて目線を再び自分の足に。その往復。
自分の住処なのになぜか感じる居心地の悪さに耐えきれなくなって、俺は話しかけた。
「あの、どうしたんだ? 何かあるなら、別に何もしないから言ってくれ」
「は、はい……」
その声は、さっきの鳴き声と同じく、技「癒しの鈴」のような可愛らしい声。
意を決した、という感じの深刻そうなニンフィアの顔は、なぜか耳のピンク以外にも赤みが差していた。
「あ、あの……困るかも、しれないけど、その……」
「ん? どうした?」
「……す、好き、です」
「っ……はぁ!?」
思わずそう叫んでしまっていた。
しかし、心の中の叫びはこんなもんではなく、もはや絶叫。
「あぅ……ご、ごめんなさい」
たどたどしくお詫びする彼女の目はウルウルと涙が溢れる寸前だった。
慌てて俺はフォローに回る。
「困ってはないが、いや困ってるけど。申し訳ないけど、前に会ったことあったか?」
「……いえ」
「やっぱ初対面だよな。なのに……す、好き、なのか?」
「一目、惚れ」
「……そ、そうなのか」
友人すら少ない俺には、突然の告白なんてどう反応したらいいのかもわからない。
いやもちろん嬉しい。心は舞い上がって落ち着かず、脳も沸騰したように暴れ狂っているほどには嬉しい。
だからこそ正常な思考はこれっぽっちもまとまらず、でもこんな反応だけで終わらせることもできず、ただ俺は困惑するのだった。
ニンフィアは潤んだ目で不安げそうにこちらを見あげた。
「あの……だめ、ですか?」
「いや、ダメじゃねえけど……ってか何について聞いてるんだ?」
「あなたと、暮らしたい……です。出来るなら……」
「あ、あぁ。それくらいなら歓迎するぞ。どうせ俺1人だったからな」
「やった……!」
心底喜ばしげに言うその顔は薔薇の花のように可憐な笑み。
ニンフィアの周りに花畑が展開される幻覚を見ながら、俺は未だに現実を飲み込みあぐねていた。
色恋沙汰なんて全くわからない、関わりもない俺に、それこそさっきのにわか雨のように突然降りかかってきた出来事。
正直バンギラスにリードされたようで寂しかった俺には、願っても無いというのが本音だった。
だが、俺の心にはどうも言い表せない新たな色のモヤモヤが、さっきの暗雲の代わりに生まれた気がする。
全くの未経験ゾーンへの不安からだろうか。
そもそも一目惚れという感情がイマイチ理解できないのも理由の一つかもしれない。
……まぁなんにせよ、これから理解していけばいいのだ。
控えめな、しかしやっぱり可愛いニンフィアの笑顔を見て、俺は思考をやめた。
日が高く昇る頃には、俺の心も脳もとりあえず落ち着きを取り戻していた。
と同時に、いくつか分かったこともあった。
「なぁ、熱くないか? 特に俺の体は日中温まりやすいしよ」
「熱く、ない」
まず一つは、会話が苦手らしいこと。
直接聞いてはいないが、このたどたどしい単語の受け答えでなんとなくそう察した。
「そういや、さっきから俺なんでこんなぐるぐるに巻かれてるんだ?」
「好き、だから」
「あ、ありがとう」
二つ目は、喋らない代わりに行動で示すらしい、ということ。
壁にもたれて座っている俺に対し、ニンフィアは俺に寄りかかりつつそのリボンのような触手を巻きつけてくるのだ。
べったりとくっついて、すり寄ってきて離れようともしない。
いや、別に不快なわけではないのだ。
なんとも言えない気分だが、確かに嬉しさはある。
ただ未だ経験がないせいかどうにも戸惑ってしまうのだ。
「……ね、この洞窟、案内して?」
「おう、いいぞ。広いけどな」
ニンフィアは俺を見上げてすりすりと前足を俺にこすりつけた。
いちいち可愛い仕草だ。わざとやっているのか、それとも天然なのか。
とりあえず何もやることがない状況が抜け出せて何よりだ。
ニンフィアとともに立ち上がり、火が消えた松明――その辺の適当な木を束ねただけのものだが――を手に取る。
「危ないから下がっとけ。これに火をつける」
「ん……」
ニンフィアが俺の後ろに隠れたのを確認し、俺は威力調節した火炎放射を口から放った。
ちなみにこの技はバンギラスから教えてもらった。
炎タイプでもないくせに炎技を使いこなしていた時にはびっくりしたものだ。
「熱くないか?」
「だいじょうぶ」
ボッ、と音を立てて松明は燃え上がり、暗闇に覆われて見えなかった洞窟の奥がオレンジの光に照らされる。
「行くぞ。一応入り組んでるから離すなよ」
――俺の洞窟、こんなに広かったか?
というのが一番の感想だった。
これは自慢になるのだが、この洞窟一帯は全部俺の縄張りとして一応通っているのだ。
俺はあまりそういうものを気にしないので普通に開放してしまっているが。
そんなこんなで、全部回るのに予定よりもだいぶ時間がかかってしまった。
やっといつもの生活圏である入り口に帰ってくると、外はもう夜だ。
「遅くなっちまったな。悪い」
ニンフィアは無言で首を横に振った。
それを「気にしてないよ」の意味で取った俺は、次にやる事を教えた。
「外で少し薪を拾うんだよ。焚き火がないと体が冷えちまうからな」
ニンフィアがどうかは知らないが、少なくとも俺の鋼の体は冷えすぎると翌日ひどい目にあうのだ。
ニンフィアは、今度はこくこくと首を縦に2回振った。
俺が先導して外へ連れ出し、すぐ目の前の森の入り口で大きめの枝を20本ほど拾う。
再び洞窟内へ戻り、拾った枝を簡単に組み立てて、そこに松明を差してやれば――
「――こんな感じに、な。火は割と保つんだぞ?」
「そう、なんだ。すごい……」
ニンフィアの青い瞳は炎を映して赤く輝いている。
こんなんでも喜んでもらえるなら嬉しい事だ。
「……美味しい」
「そうか、良かった。まぁきのみにゃ外れはないわな」
焚き火に当たりつつ、溜め込んであった木の実を食べる。
今日は食べる分を取ってきていないから、明日に補わなければならない。忙しくなりそうだ。
「温かいきのみ、初めて」
「いつもそのままで食べてたのか?」
こくりと首肯する首の動きより、その小さい顎の動きの方が大きい気もするが。
「でも……温かいから、美味しいわけじゃ、ない」
「他にもあんのか?」
「ん……あなたと、いっしょ」
こちらを見もせずに、しかしその言葉は温かいを超えて熱いくらいで、なんだか胸がむず痒くなる。
好き、だとこれが当然なのだろうか。
俺にはそんなものはまだ分からなかった。
そしてまたお互いに話さない時間が始まるのだ。
こうなってしまうとどうにも落ち着かなくて、何か話題を探すしかなかった。
さっきも言った気がするが、ニンフィアは相当に無口だ。
黙っているのが好きと言うか、喋るのを嫌っているというか……。とにかくそんなやつらしい。
別に嫌いなわけじゃない。むしろ俺も話は上手くないので助かってはいる。
……助かっているはずなのに、なぜ俺は居心地が悪いのか、自分が分からない。
他のポケモンといて、話さないことに居心地の悪さを感じたのは今日が初めてだった。
結局たわいもない話題なんて俺には考えられなかったので、思ったことをそのまま聞いてみることにした。
「お前は、無口だな」
「……きらい?」
「いや、そんなことはねぇ。俺も喋るのは苦手だからな」
「そう。……無理に話す必要なんてない」
「それもそうだな」
「話さなくても、好きなのは伝えられる」
既に体はくっつけていたのに、体を押し付けるようにニンフィアは更に迫ってくる。
何とは無しにニンフィアへ手を伸ばそうとして、やめた。
不意に体の奥が熱くなったのだ。
今日はおかしな日だったな、と洞窟の中からでも少し見える夜空を見上げて考える。
今日になって急に現れた、このモヤモヤした気分は確かに嫌なものではない。
だがなぜなのか。このまま進んではいけないような、そんな不安が混ざっているのだ。
なんの前触れもなく起こった今朝の出来事が、文字通り夢みたいだからだろうか——
「どう、したの?」
「ん、あぁ。いやなんでもない」
きょとんと首を傾げたまま、ニンフィアは小さくあくびをした。
その眠そうな目を見ると、こっちまで眠くなってしまう。
「……もう寝るか」
やはりニンフィアは何も言わずにこくこくと頷くのだった。
「ふぃ〜〜〜〜〜あ!!」
澄んだ高い声が一瞬だけ山中に響き渡る。
すると、月明かりに照らされる洞窟に、新たな影が出現した。
元あった影が、出現した影に近づいていく。
「安心して、私。サーナイトよ。ニンフィア、ここの調子はよさそう?」
「ううん、この森は珍しいものは特にないし、きのみはたくさんあるけど取るのはちょっと面倒みたい」
「そう……じゃあ明日は別の場所に行く?」
「その必要はないよ。ほら、あそこにデカイの一体いるでしょ?」
「えぇ……ボスゴドラかしら」
「当たり。最初ここに入ろうとしたらコイツが住処にしてたみたいでさ、ちょっとびっくりしたんだけど、すり寄って『好きです』って言ったらすぐ落ちた」
「本当にそのあたりは上手いわよね。それで、何か手に入りそうなの?」
「あぁ。ふっかつそうが大量に茂ってるところがある。洞窟は入り組んでてまだあたしには分からないけど、コイツなら知ってるっぽい。ある程度定期的に取りに行くみたいだからそこについていけばふっかつそうは当分困らなそうだね」
「本当? 助かるわね。これで当分小さい怪我には困らないわ」
「あぁ。きのみもそれなりにあるみたいだし、せっかくのカモだからしばらくここに残ることにする。ガブにも言っといてね」
「分かったわ。じゃあ、また呼んでちょうだい」
「多分夜になるから、そこだけ気をつけてね」
「えぇ。それじゃあ」
軽く手を振って、サーナイトは胸の前に両手を合わせる。
一瞬サイコパワーが膨らんで、ぴしゅん、とまたサーナイトの姿が搔き消える。
さっきまで寝ていた場所——ボスゴドラに包まれるみたいな格好になる、ボスゴドラのすぐ目の前——に再び戻って寝転んだ。
「……しばらく、よろしくね?」
ニンフィアは静かに目を閉じた。
まるでドククラゲが獲物を逃さないようにするみたいに、自身のリボンをボスゴドラに巻きつけて。
その小さな口は、獰猛なカーブを描いている。
「ぅわーっくしょい!」
突然鼻がむずむずとし始め、自分でしたくしゃみの音で俺は目覚めた。
柔らかいなにかが鼻の周りをなにかがうろついているのだ。
「は、は……あっくしょい!」
再びのくしゃみの衝撃でまた頭が動き出し、俺は腕の中の温かいものにも気づく。
最初こそびっくりしたが、すぐにきちんと思い出した。
そういえば、昨日からもう寝るときも1人ではなくなっているのだった。
つまりなにが起こっていたかというと、ニンフィアのリボンがふわふわ揺れて俺の鼻に当たっていたのだ。
「……ぅ、ふぇ……」
もぞもぞと手の中の柔らか物体が動き出す。
「起きたか。おはよう」
「あ、おはよう……♪」
寝起きの朝一番でも笑顔の輝きは薄れない。
「今日は、なにする……?」
「おう、飯食ったら適当にきのみを取りに行くぜ。昨日分も補っとかないといけないしな」
「うん……あなたが一緒なら、どこでも」
「聞いといてそりゃねえぜ」
軽く撫でてやったら、ニンフィアはまた淡く笑った。
何はともあれ、朝といえばまず朝食だ。
さて、と適当に呟いて、洞窟の奥に貯めてあるきのみを取りに行くため起き上がる。
一歩、二歩、歩いてニンフィアがついてこないことに気づいた。
「おい、どうした? きのみ取りに行くぞ」
「……起こして、ほしい、な?」
「……はぁ?」
寝転んだまま、キラキラと光る目でこちらを見て、ニンフィアは首をかしげた。
甘えているのだろうか。
いや、その仕草が可愛くないと言えば嘘にはなるのだが。
「起こしてほしいの。……ダメ?」
「いや、構わんが……」
寝そべるニンフィアの前足を軽く掴んで引っ張る。
ニンフィアはその勢いのまま起き上がり、俺の脚に抱きついた。
「ん、ありがとう……」
「おう。んじゃ行くぞ」
結局、なんで俺が起こしたんだろうか。
朝食用のきのみは、俺はいつも通り好きなのを選んで、シュカのみだ。
ニンフィアは特に何かを選ぶ風もなかったので、少し聞いてみた。
「きのみ、好きなのとかは?」
「……好きも、嫌いも、ない」
流石に予想外だ。
嫌いなものがなくても好きなもの一つくらい、普通あってもおかしくないのだが。
「少しだけ好きとかもないのか?」
「うん……食べられれば、なんでも」
「そ、そうか。まぁ適当に選んでくれ」
こだわりがないなら、目に留まったものを適当に取っていけばそう時間もかからないだろう。
きのみを両手に優しく——強く握ると潰れてしまう、それだけの理由だ——持ったまま俺はつっ立って待っていた。
不意にニンフィアがこちらを振り向く。
「……あなたが、選んで。なんでも食べる」
「俺が?」
首肯し、ニンフィアは付け加えた。
「あなたが選んだなら、おいしく食べる」
「そ、そうか……」
俺も表面上否定してこそいないものの、内心は怪しい光を受けたように混乱状態だった。
なんでも食べるとはいえ、まずいものは食べたくないだろうし。
でもニンフィアが美味しいと感じるものも分からない。
俺とこいつではタイプも体も違いすぎるから、俺の好みをそのまま選んでも多分効果は薄い。
……とりあえず甘いものを選んでおけばハズレはないだろうか。
幸いきのみの種類はそれなりに豊富だったので、甘くて食べやすい筆頭であるモモンのみとウタンのみをいくつか拾い上げた。
「モモンのみとウタンのみ。どうだ?」
ニンフィアのリボンが一瞬びくりと跳ねた。
ニンフィアは少し考えた後、ゆっくりと一回だけ首を縦に振った。
歩き出すと、しゅるしゅると滑らかな動きでリボンがまた腕に巻きついてきた。
じゃれついてきたかと思ったが、少し締め付ける力が強い。
「暗いの、苦手か?」
ここは場所が入り口からほど近いこともあって、暗いものの夜目が効けばギリギリ辺りが見える程度に明るいのだ。
松明を持っていないのもそれが理由だ。
いちいち松明をつけるのが面倒でそのままくるせいで、たまに上手く周りが見えずきのみが潰れたりする事故も起きたりするのだが。
詳しい表情までは読み取れないが、ニンフィアは勢いよく首を振って否定した。
あまりの必死さに余計に「やっぱり苦手なんだろうか」と考えてしまう。
巻きつけたリボンを後ろに引っ張ってニンフィアが抗議してくる。
「はは、すまんすまん」
思わず苦笑しながら謝ると、後ろに引っ張る力が消えた。
あんなに必死だったのは、やっぱり暗いのが苦手で恥ずかしいからなんだろうか。
カリッ、コリッ、と口の中でシュカのみが香ばしい音が弾ける。
この食感と香りが美味いのだ。
ふと何気無く横を見たら、ニンフィアもこちらを見ていた。
ふわり、ニンフィアが微笑む。
「欲しいか? シュカ」
ふるふると首を横に振り、ニンフィアはもう一度微笑んだ。
思わず手が伸びた。ニンフィアの頭に手を乗せて、一撫で。
ニンフィアは俺から目を離してまたモモンのみを小さな口で食べ始めた。
俺がほとんど食べ終わるというのに、ニンフィアはまだ半分も食べ終わっていない。
「多すぎたか? 要らないなら言ってくれ」
「じゃあ、1個ずついらない」
「悪いな。量の加減が分からなくて」
こくり。
モモンのみ、ウタンのみを一つずつ取って口に放り込む。
柔らかい果肉が潰れると、控えめな甘みが口に広がった。
「うん、美味いな」
残ったシュカのみも全部まとめて食べきって、俺はニンフィアがモモンのみを食べる様子と外の景色に視線を往復させた。
食べ終わればすぐに出発だ。
目的地は、きのみ畑——と言っても誰かが育てていたりするわけではなくきのみが密集して自生しているだけなのだが。
そう遠くもないためすぐに着いた。
「何を、取る?」
「好きなのを適当に取るだけだ。ただ、1つの木から取りすぎるのはダメだぞ。次の木ができなくなるからな」
きのみのなる木は背丈が低いものがほとんどなので、取りやすいためついつい取りすぎてしまう者もいるのだ。
こくこく。
さて、まずは今朝食べたシュカのみから補充しよう。
シュカのみの木はどこにあるか全て把握済みだ。
そのうちの一番実が残っている木を選んで、手で軽く揺らす。
すると、黄色の太ったきのみが雨にように一斉に落ちてくる。
一つ一つ拾うと面倒だが、俺には秘策があるのだ。
頭の先に意識を集中し、それをきのみへ解き放つ、そんなイメージで——
ふわん、ときのみが草むらから飛び出てくる程度の高さまで浮かび上がった。
これぞ、奥義・電磁浮遊だ!
……全然奥の手でも奥義でもねえし。何考えてんだ俺は。
内心の自分に内心で苦笑しながらきのみをこちらに引き寄せる。
すると、磁気に引かれたわけでもなかろうが、ニンフィアも寄ってきた。
「おう、……おう!?」
1回目のは挨拶、そして2回目のは驚きの「おう」だ。
何故ならその背中には、たわわに実っていたであろう真ん丸のカイスのみがいくつも乗っていたのだ。
カイスのみといえばその大きさと甘さから1個あれば1日〜3日は食い繋げるというきのみだ。
それをいくつも……しかも今朝食べた量から見るにそう大食いなわけでもないだろう。
なにより、その細身な体にあんな大きいものが収まるとは思えない。
「そんな大きいのいくつも食べられるのか?」
「う、うん。今日は食べないけれど」
「朝もあまり食べてなかったな。体調悪いか?」
ぶんぶん、ニンフィアは勢いよく首を振る。
「そうか、ならいいけどよ」
再びきのみの方に意識を戻した。
ニンフィアがカイスのみを持ったまま、浮かび上がるきのみを凝視する。
くるくるときのみの周りを一周し、きのみの下にリボンを通過させてみたり、首を傾げてみたり。
「不思議か?」
こくん。
「電磁浮遊って技でよ。遠出した時に会ったレアコイルに教えてもらったんだ。ほれ!」
ニンフィアのカイスのみも一緒に持ち上げてやった。
ニンフィアは表情が乏しいながらも目を見開いて驚いている。
こう驚いてくれると楽しくて、つい少し悪ノリしてしまう。
「ひ、やぁっ……!」
ニンフィアが控えめに悲鳴をあげた。
なんのことはなく、電磁浮遊でニンフィアも持ち上げてみただけなのだが。
「わ、悪い。驚かせたか」
「……んぅぅ」
ニンフィアは無言ながら、眉を吊り上げ頬を膨らませて俺に抗議した。
「ごめんって。浮かぶ感覚慣れてないと怖いよな」
足にリボンを巻きつけて揺さぶろうとする(少しも揺さぶることができていないのだが)ニンフィアの頭を軽く撫でる。
ニンフィアは目を細め、口角を上げ、ふんわり微笑んだ。
適当によく実っている木からきのみを収穫したり、足りないと言われてカイスのみを探したりしていたせいで帰ったのはもう夜になりかけの夕方だ。
十数個のカイスのみだなんて、電磁浮遊で浮かせられなかったら持ち運ぶのがかなり大変だっただろう。
まったく、ニンフィアはどれだけ甘いものを食べていたいのだろうか。
きのみを保管してある場所に全てのきのみを置こうとすると、肩を柔らかいものが触れた。
振り向くと、俺の注意を引くために使ったリボンをしゅるしゅると元に戻し、ニンフィアが呟いた。
「カイスのみ、冷たいところに置くと、美味しい」
「冷たいところ?って言ってもここも十分涼しいと思うが」
「地下水、溜まってるとこ」
「あぁ、水で冷やそうってことか。分かった」
既に外が暗いせいで作っていた松明を軽く振り、松明の残りの長さを見る。
まだ十分な時間保ちそうだ。
……洞窟の奥に光源なしで取り残されると、ゲンガーたちがいたずらしにくるからな。
それに耐えないとフラッシュで明るくしてもらえないのだ。
そんなわけで必要不可欠な松明を、前方に振りかざす。
火の粉がパラパラと散って暗い地面にランダムな模様を描き出した。
太陽の届かない地下に溜まった小さな池の中にカイスのみを放り込んで、俺たちは入り口に戻ってきた。
——ニンフィアに取り出させるわけにはいかないし、俺があのキンキンに冷えた水に手を突っ込まなきゃいけない、というのが少々辛いところだ。
今カイスのみを取り出すわけでもないのでとりあえずその憂いは頭の隅に追いやって、目の前のオッカのみを数個口に放り込む。
当たり前のように食べているこのきのみ、実は火を通さなければ硬くて食べるのはほぼ不可能、しかし火を通せば辛味が激増するという曲者なのだ。
まぁこの後鉄鉱石を食べようとしている俺の顎にはこのきのみでさえそう硬いものではないのだが。
オッカのみの程よい辛さが俺の食欲を増したところで、今回のメインに手をつける。
いきなり大きめの鉄鉱石を掴んで口に放り、一噛み。
ガギン!と鋭い金属音が鳴った。
ニンフィアがびくん!と全身を震わせる。
ガギン、ビギン、と咀嚼し、飲み込んでから一応謝っておく。
「驚いたなら悪いな。でもこれ食べないと体が脆くなっちまうんだよ」
ふるふる、首を振ってからニンフィアは小さく付け加えた。
「……おいしい?」
「え? いや、俺には美味しいけどよ」
「ちょっとだけ、ちょうだい」
「いいけどよ、お前が食っても絶対においしくないぞ」
「分からない」
何故急にそんなことを言い始めたのか分からないが、とにかく小さめの鉄をニンフィアの方に転がしてやる。
ニンフィアはくんくんと匂いを嗅ぎ、それから下でペロンと一舐めした。
「……おいしくない」
「だから言ったのに。もったいないからそれ返してくれ」
「うん……はい」
ニンフィアは頷いて、リボンで鉄鉱石を持ち上げた。
小さな鉄鉱石はしかし俺の手ではなく、俺の口元へ。
「……うん?」
「……食べて」
「あ、あぁ……」
何故か威圧感を感じて、俺は拒むことなく口を開けた。
口の中にコロリンと鉄鉱石が落ちる。
ガギン、バリン、と噛むたびにまた音がする。
「美味しい……?」
「ん、まぁな」
「……良かった」
ニンフィアは顔をリボンで隠してくすりと笑った。
なんというか……変な奴だな。
モクローも寝静まる、月が高く登った時間帯。
ニンフィアは寝るときに自ら入ったボスゴの腕の中を抜け出し、洞窟から外に出た。
狙いを絞って、ビームを発射するようなイメージで高く叫ぶ。
エコーボイス、という技なのだが、これが遠くに連絡を取るときに割と使い勝手がいいのだ。
それをあちらで聞き取ったサーナイトが、テレポートでこちらにやってくるという仕組みでこれまで何度も盗んだり収穫したりしてきた。
今日も例外ではなく、すぐに目の前の空間が一瞬歪んで、サーナイトが出現した。
「今日はどうだったの?」
「あぁ、良いもんゲットした」
「いいもん?」
「見てのお楽しみ。少し工作してごまかすのにガブじゃないとできないから呼んできて」
「……。分かったわ」
サーナイトは一瞬躊躇ったのちテレポートで消えていった。
嫉妬深いなぁ……SBPK……なんて月を見ながら考えることじゃないか。
今度は先ほどよりもだいぶ大きく空間が歪んだ。
「おい、今度はどんな雑用だ」
血を欲していそうな鋭い爪と牙。
筋肉質に筋張る腕に足に尻尾。
極め付けには爪と同じくらいに鋭い眼光。
特に夜に見ると、どっからどう見ても色々な意味で——怪物方面にも、恐喝方面にも——怖いヤツだ。
「雑用だなんてそんな〜。私たちにはできない立派な力仕事じゃん?」
「出来ない面倒ごとを押し付けられるのが雑用係じゃねえか」
「まぁまぁ、気にしない。今日の仕事は大きいよ」
「……あぁ」
ギロリと睨まれるのももう慣れたもので、普通に会話していたらサーナイトが間に割り込んできた。
「それで、どこに行くのよ」
「洞窟の奥。声と足音潜めてよ。特にガブ」
「努力はするがよ、しょうがない部分はあるぜ」
「しょうがないで他のポケモンに見つかっって言いわけないじゃない。気をつけてね」
「分かってるってサナ……」
夜は太陽と違って光源が弱いので、少し奥に進むだけですぐに真っ暗になってしまった。
すると突然あたりに薄緑の鬼火が大量出現した。
「おう、サナサンキュー」
「はーい。つくづく便利よね」
離れて自由自在に動かしたり光源になったり、羨ましい限りだ。
ニンフィアも過去に練習をしたことはあった。だが一回も上手くいかずに辞めてしまったのだ。
炎と違って揺れもしない安定した薄緑を頼りに、ニンフィアは行き帰りで頭に叩き込んでおいたルートを間違うことなく進んだ。
「水音するわね」
「地下水脈、とかか?」
「当たり……なのかな。私もよく知らない」
適当な会話を交わしているうちに、目的地に到着した。
「わ……ナイスよ! お手柄じゃない!」
「カイスのみか! しかもこんなにいっぱい……これだけあればかなり保つんじゃねえか?」
「そう! 多少怪しまれること覚悟で取ってきた」
「頑張るわねぇ。他のポケモンと喋るのは私もガブも苦手だから」
「まぁ、多少は。それより早く回収してよ」
「おい、なんで俺を見る。俺が寒さに弱いの知ってんだろうが」
「だって他にいなくない?」
「私がサイコキネシスで何とかするから! ガブくんは下がってていいよ」
「おう。サンキュ」
サーナイトがサイコキネシスでまとめてカイスのみをすくい上げる。
「んで、俺の雑用はなくなったのか?」
「まさか。ここからが本番」
「そうか。何やるんだよ」
一層目をきつく絞ったガブリアスに、ニンフィアは笑顔で答える。
「この池、ぶっ壊して」
「はぁ?」「えぇ?」
2人分の小さな疑問の声が洞窟の壁に1、2回反響した。
「だから、壊すの。カイスのみが流れ出るような穴が開いて水と一緒に全部流れ出ちゃえば、無くなったことに疑問は残らないでしょ?」
「……そりゃ頭いいのか悪いのか」
「いいに決まってるじゃん」
「まぁいい。やってやるよ」
はぁ、と短くため息をついて、ガブリアスは池の端っこに構えた。
3回壁に爪を立て、サーナイトに目配せする。
「流石に岩だとちょっと割りづらいな。サナ、この辺りの岩を振動させられないか?それで脆くできる」
「分かったわ」
サーナイトがサイコショックを壁に押し当て、少しずつ弾けさせることで細かな振動を生み出していく。
ガブリアスの爪が振り下ろされると、一回で表層の岩盤はすぐに崩れ去った。
2回、3回と続けていくと、だんだん石や砂が下に溜まっていく。
ガギン!と硬いもの同士がぶつかる音がした次の瞬間。
岩盤に大きな裂け目が入って、水が勢いよく無くなっていった。
「カイスのみの大きさかは分からんが、こんなもんか?」
「ま、いいんじゃない? 誤魔化すのは任せてくれればいいから」
「そうか。頑張ってくれよ」
あとの仕事は、バレないように戻るだけ、失敗するわけもなかった。
適当にサーナイトとガブリアスと別れ、ニンフィアは再びボスゴドラの腕の中にすっぽりと収まった。
「……あったけぇ」
日差しの恵みへの感謝の気持ちを込めて、俺はすぐ目の前の地面に向かって嘆息した。
今日は朝から体が冷え込んでいて上手く動かなかったのだ。
こんな時は寝転んで日差しに当たって体を温め、太陽が高く昇ってから動き出すのだ。
こんな時は気分良く尻尾も揺らしてしまう。
すると、尻尾の先が柔らかいものを掠めた。
もちろん横で同じく寝そべっていたニンフィアだ。
「おう、悪い」
ニンフィアは返事を返さずすくっと立って、俺の目の前に来た。
「……ばとる」
「お? どうした」
「バトル、しましょ」
いやそんな真剣な眼差しで見つめられても。
「バトル? お前はできるのか?」
こう聞いたのは別に侮辱しようとかそういうわけではなく。
正直このニンフィアが俊敏に動いたり強力な技を放ったりするようには見えなかったのだ。
しかしニンフィアはぷくっと小さく頬を膨らませて怒りを表現した。
「私、強い」
「体格差もあるし、あとタイプ相性もあるし。やめとけって」
「関係ない。見て」
ぴょん、と俺の横にジャンプし、ニンフィアが何やら技を発動した。
ニンフィアの周囲に、綺麗な光を放つエネルギーの塊がいくつか生み出される。
強烈な橙色に光るそれは一直線に俺の方へ飛んできて——
「痛ってぇ! 痛い、痛いって!」
俺の横腹に連続で衝突して弾けた。
「めざめるパワー」
「おいそれってもしかしなくても地面だろ! 朝シュカのみ食ってなかったら危なかったぞ」
地面タイプは4倍弱点。流石の俺でも辛いところがある。
「効果、もう切れる。私、勝てる」
ニンフィアの言う通り確かに朝飯を食ってからもう時間は空いて、シュカのみの耐性効果もそろそろ切れてしまう。
そうすれば苦手なタイプで攻撃できる自分にも勝機がある——そう言いたくてデモンストレーションしてみせたのだろう。
仕方ない、それなりに痛かったし相手してやるか。
「分かった、分かったから2撃目を準備するのはやめてくれ!」
「勝負、する?」
「あぁ! するする! ちょうど体も温まってきたしな!」
かくして俺たちは洞窟の入り口前で対面して構えることになったのだった。
互いに睨み合うだけで動かなくても仕方がないので、俺は軽くニンフィアに手を振った。
「お前からでいいぞ」
しかし、ニンフィアはそれを挑発と取ったらしい。
「手加減、しない……!」
ニンフィアの周囲で、数十個の太陽が一斉に輝き出した。
オレンジ色のエネルギー塊が、まとめて一直線に飛んでくる。
3回飛びすさり、更に腕と尻尾で残りを薙ぎ払うことでなんとかめざめるパワーは対処した。
流石にあれだけの量を一度に作り出すのは疲れたのか、ニンフィアは次弾を放ってこない。
絶好のチャンスタイム、と俺は意識を体の内側に集中する。
目をカッ、と見開き、一直線に走り出した。
「……ぇ」
ニンフィアが小さいながら困惑の声を漏らす。
まぁ初見なら無理もないだろう。
何故なら、俺はニンフィアとは全くの逆方向に走り出したからだ。
助走の勢いのままジャンプし、空中で俺は自身の体を何度も殴りつける。
そして、落下——着地とともに、大量の金属片と粉が俺から舞い落ちた。
呆然としていたニンフィアも、俺が着地した時の大きな音で我に返り、再びめざめるパワーを発動し始める。
しかし、もう遅い。
開始時よりも離れたニンフィアとの距離を一瞬で詰め、ニンフィアの目の前に尻尾を差し出した。
ニンフィアの鼻先をちょんと尻尾でつついてやって、
「アイアンテール、な。お前の負けだ」
そう宣言する。
ニンフィアがへたへたとその場にしゃがみ込んだ。
「……なんで?」
「あ? 何がだ?」
ひと勝負終わったあとの、達成感に似た心地よい倦怠感のままに俺たちは洞窟の入り口で寝そべっていた。
簡単に言えば朝の日光浴に逆戻りだ。
「いきなり、速かった……」
「あぁ、あれか。ボディパージって言ってな。体削って軽くするから早くなるんだよ。ジャンプしたのは、着地の時に削ったのが全部衝撃で落ちるからだ」
「体、削る……大丈夫……?」
「あぁ。削るって言ってもそれで防御力下がっちゃいけねえからな。余分な部分しか削らねえんだ。まぁボディパージ使った日は念のため鉄鉱石多めに食べるけどよ」
顔だけ上げて横目でこちらを見ていたニンフィアは、ついに全身を地面に突っ伏した。
「……強かった。全然、勝てない」
「お前だって強かったじゃねえか。俺はあんなに同時に目覚めるパワー撃てるとは思わなかったぞ」
「でも……」
抗議をするようにニンフィアは顔を上げてこちらに向けた。
「本来得意技はあれじゃないんだろ? サブの技であれならお前も十分過ぎるくらい強いじゃねえか」
「…………」
ニンフィアは水色の瞳を静かに揺らして、こちらを見つめるだけだった。
その奥で何を考えているのかなんて、俺には皆目見当もつかない。
だらだらと過ごしていた午前に比べ午後は少し忙しかった。
少なくなっていた食べる用の鉄鉱石を回収するために洞窟を半日で駆け回ったせいだ。
途中からニンフィアを抱えての移動だったこともあってか、午前中の休息はどこへやら、疲れで体が重い。
ちなみに何故ニンフィアを抱えて移動する羽目になったかというと、全くの謎である。
理由を教えてもらえなかったからどうしようもない。諦めて受け入れた。
そんなこんなで晩飯の時間だ。
「……そういやカイスのみ食べるんだったよな。取りに行くか」
松明を取って立ち上がる。
後ろから困惑する声が聞こえた。
「え、あ、あの……」
「取るのは俺だ。お前は濡れないぞ」
「そ、そうじゃな……」
また遠慮して。
食いもんくらい図々しく本心を出してくれても構わないのだが。
「ひゃぁっ……!?」
ついて来ようとしないニンフィアのため、俺はニンフィアを抱き上げた。
視線を感じ、ちらりと下を見た。
「どうした?」
ニンフィアが恨めしげな目で俺の顔を見ている。
「……ぁ……あの、突然、抱っこ……お姫様……抱っこ……」
「一番運びやすいんだよ、悪いな。降ろすか?」
「……ん、そのまま」
ニンフィアは目を潤ませてゴニョニョが喋るような小さい声で呟いた。
「おう、そうか」
ゆっくりと、カイスのみを冷やしてある地下池へと向かう。
地下池にたどり着いた俺は、状況を見るなり固まった。
「…………なんだ、これ」
呆然と、そんな言葉しか出なかった。
昨日までは並々と溜まっていた水が、元からなかったみたいに一滴残らず消えているのだ。
「何があった……!?」
松明を右に、左に、辺りを照らしてこの状況の原因を探した。
ちょろちょろと水が流れる中に足を突っ込んで、水の行き先を探る。
……池だった窪みの端に、大きな穴が開いているではないか。
これのせいで水が全部流れてしまったのだろうか。
「……っ!」
岩石封じを穴めがけて放ち、応急処置として大まかに塞いでおく。
細かく埋めるのはディグダたちにでも頼めばいいだろうか。
ふと振り向くと、ニンフィアが不安げな表情で壁にもたれかかって佇んでいた。
「悪いな。カイスのみ、どっか行っちまった」
ふるふるとニンフィアはゆっくり首を横に振る。
「……あなた、悪くない」
「まぁそうなんだけどよ。カイスのみはまた明日取ろう」
「もう、いい……カイスのみは」
「食いたいんじゃなかったのか?」
「別の、食べたい」
「そうか」
ただ単純に食べたくなくなったのか、それとも何か考えての言葉なのか。
分からないことをいちいち考えるのはやめて、またニンフィアを抱き上げた。
「……それは、やめて……」
「まあいいじゃねえか。昼はやってただろ」
「それとこれとは……ちがう」
「同じだ同じ。戻るぞ」
戻って晩飯を終えた後、俺は星空を見上げつつ少し考えていた。
もちろんさっきのカイスのみのことについてだ。
一応この山は俺が中心で管理している。
だから、池があんなことになっていたのに気づかなかったのはどう考えても俺も悪い。
ニンフィアは俺を悪くないと言ってくれたが、やはり何かカイスのみの代わりを考えたほうがいいのだろうか。
……ニンフィアが喜びそうなものが全く思いつかない。
思考を巡らせようにも、とっかかりがなくて進めないもどかしさが俺を苦しめる。
「……考え、ごと?」
「ん? あぁ、いや。お前が喜びそうなものってなんかあったかと思ってよ」
隠してもしょうがないので、正直に言った。
答えがもらえるかもしれないしな。
しかし、ニンフィアはじっと俺を見つめた後、予想外の言葉を返してきた。
「……カイスのみなら、だいじょうぶ」
多分顔には出ていないと思うが、ドキッとした。
「……なんでわかったんだ? 考えてること」
「なんとなく……それしか、ない」
「そんなもんか……?」
なんというか、ペースをかき乱された。
しかし大丈夫なんて言われてもやっぱりお詫びはしておきたいと思ってしまう。
——そうだ、確か電磁浮遊を使った時時興味を持ってなかったか?
なら、一回だけやったことがあるアレをやったら喜ぶだろうか。
「なぁ、空飛んでみたいと思うか?」
「え、そんなこと、できない……」
「それができるんだよ」
「え……」
ニンフィアのこの目は、まだ信じられないと思っている目だ。
しかし、その奥には微かに期待がこもっている気がした。
だから、
「乗れ」
ニンフィアを抱き上げて、強制的に頭の上に乗せた。
「……片手で掴むの、痛い……」
「悪い悪い。んじゃしっかり掴まっとけよ?」
全身に神経を張り巡らせ、技を発動する。
「え……え、えぇ!?」
ニンフィアが珍しく感情を露わにして驚きの声をあげた。
そして、俺の体がどんどん地面を離れていく。
洞窟も出て、木々も超え、空へと急上昇する。
「ぇ、あ、きゃああぁぁぁ!?」
少し加速しすぎただろうか。ニンフィアはツノに思いっきり抱きついてきた。
「……怖、かった」
「あぁ、ごめんな。それより、上見ろ上」
「……あ」
見るだけで心が浄化されるような綺麗な星空が、ずっと先まで続いていた。
遮るものは何一つなく、一面の絶景を独り占め……いや、2匹占めしているような気分になる。
「どうだ?」
「……綺麗」
「そうか。喜んでくれるなら、お詫びの甲斐もあるな」
ニンフィアがぺしぺしと俺の顔をリボンで叩いた。
「どうやって、浮いてるの?」
「きのみの時見せたろ? 電磁浮遊だよ」
「……すごい」
顔にかかっていたリボンが離れていった。
それは星空へと向かって目一杯伸ばされ、それからしなしなともう一度俺の顔に落ちてくる。
「……届かない」
「そりゃな。でもなんか届きそうなのは分かるぞ」
「うん……」
空中に留まって、ニンフィアと一緒に夜空を見上げる。
ただそれだけの何もしていない時間が、しかしとても充実している気がした。
ニンフィアもそのままでは暇だったのだろう。
珍しく自分から話し出して、星座なるものを教えてくれた。
なんでも、星々を線で結んだ形をポケモンに見立てたものなのだとか。
しかしまぁ、あれはペンドラー座だの、これはオノンド座だの、よく覚えているもんだ。
俺はこんなの知らなかったから、多分ニンフィアの出身地に言い伝えか何かがあるのだろう。
話し疲れたのか、ニンフィアは俺の頭に寄りかかってきた。
頭頂付近にある俺の耳に、ニンフィアの吐息がかかるのがくすぐったい。
「なぁ、耳くすぐったいからそこに突っ伏すのやめてくれねえか?」
「……、ここ、耳だったんだ」
すると、ニンフィアが耳に顔を近づけたのがわかった。
「やっぱり、好き」
そうやって、甘く、囁かれた。
「……いきなり、どうした」
「……優しい、から」
「よく分からんけど、ありがとよ」
ニンフィアから意識を外して夜空を見ると、ラブカス座の口の部分だとニンフィアが言っていた星がなんとなく目に入った。
ポケモンの鳴き声一つすら聞こえない静かな深夜。
ニンフィアはただぼーっと月と星に視線を送っていた。
「あら? どうしたの、ニンフィア」
「……あ、ごめん」
いつの間にかテレポートしてきたサーナイトに声をかけられ、ニンフィアはハッと我に返った。
「あなたって、星空を見上げて物思いするような子だったかしら」
「失礼な! 私どんなイメージになってるの!?」
「悩み事ナシ! 活発! ♂より強い! みたいな?」
「みたいな? じゃないし! おかしいって」
「まぁまぁ。それで、今日はどうだったのよ」
「ん……アイツ、ちょっとヤバいかも」
「アイツって、そこのボスゴドラ? 何がよ」
無意識にひそひそと2匹は声を潜めた。
「その……強い。とんでもなく」
「ニンフィアがそんなことを言うくらい……なの?」
「うん。失敗してバレたらどうなるか分からないかも」
「そんな! ……大事を取ってもう引いた方がいいんじゃない?」
「いや、最低限ふっかつそう回収するまではなんとか頑張る」
「頑張るって……ううん、分かった。ありがとね」
「うん。食料周りはこっちでなんとかするから、2人でなんとかやってて」
「えぇ。任せておいて」
サーナイトとニンフィア、2人は互いに笑顔で1つだけ頷いた。
「……それはそうと、さっき何考えてたのよ」
「蒸し返すの? なんでもいいじゃん」
「そういうわけにはいかないじゃない。気になるもの」
「……昨日のカイスのみ回収した時に池壊したのあるじゃん。なんか、申し訳ないことしたかなって」
「熱でもあるの!? 多分、チーゴのみあるでしょ? 早く持って来なきゃ!」
「だから、私はどんな扱いになってるのって!!」
「ご、ごめんなさい。でも、あなたはもっと残虐な性格だったわよ。少なくとも、申し訳ないなんて言葉は前なら絶対言ってないもの」
「うん、ちょっと前なら思ってなかっただろうなって思う。なんでかな」
「知らないけど、優しいのが裏目に出ることがあるのはあなたが一番知ってるじゃない」
「分かってるよ。気をつける」
「ならいいわ。……もう報告はないかしら」
「うん。ないよ」
「そう。じゃあ、おやすみなさい」
サーナイトが居なくなって、またニンフィアはボスゴドラの腕の中に戻る。
今まではボスゴドラに背中を向ける格好だったが、今日はなんとなくで対面するようにして、寝転がる。
「本当に、なんで優しくなんかなってんだか……」
呟いてから考えても解決しないということを悟って、ニンフィアは頭をボスゴドラの腕に預けた。
目を閉じれば、簡単に眠りの世界へと落ちていく。
ザーーーーーッ、と雨粒が木々の葉っぱに当たる音が絶え間なく鳴り続ける。
雲の上からハイドロポンプをされているみたいなひどい本降りだ。
「……昨日の夜はあんなに晴れてたのになぁ」
「うん……突然」
俺の独り言に律儀に答えるニンフィアは、地面で何やらやっている。
「何やってんだ、それ」
ニンフィアは何も言わず、代わりに細工中の何かを見せてくれた。
「これは……ザロクのみの皮か? んなもんで何してんだ」
分厚い皮を、その辺に落ちていたのであろう石でいじっているのだが、本当に何をしているのやら。
皮に模様を描いて、丸い石を包んで——
「……バケッチャ」
なるほど、確かにバケッチャだ。
……なんだこれは?
「上手だけどよ、何がしたいんだ?」
「……よく作るから、つい」
「よく作る? ……余計にお前の前までの生活が分からんな」
サッ、と場の空気が5度ほど冷えた気がした。
まるで、心の地雷を思い切り踏み抜いてしまって相手の機嫌をどん底まで叩き落としてしまったような。
「別に、分からなくていい」
異様に寒気を感じさせる冷たいオーラは、ニンフィアから放たれているのだった。
ちらり、とこちらを見ただけなのに、心なしか睨まれているような気さえした。
「わ、悪い。詮索するつもりはねえから、許してくれ」
慌てて謝った俺だったが、ニンフィアはきょとんと首を傾げた。
「詮索……? なんの、話?」
「え、いや、お前の前の生活のこと、言わないほうがいい話だったかと思って」
「ん……別に、何も、なかった」
「なんだ、そうなのか」
どうやら、ニンフィアが俺を睨んだというのは本当に勘違いだったらしい。
しかしまだニンフィアが放つ冷たいオーラは色褪せもせず俺にチクチク突き刺さる。
待て、この感覚は……覚えがある気がする。
「……おい、いるなら出てこいよ」
俺はなるべく低い声を作ってニンフィアの方へ呼びかけた。
「私、いつでもそばにいる……隠れてない」
「いや、お前じゃねえんだ。……そこの影にいるんだろ?」
慣れないながらなるべく脅すような目も作って、ニンフィアの影に視線を落とす。
影が一瞬ぐちゃぐちゃに崩れ去って、その黒い塊は空中で形を成した。
「ケケケッ! 思ったより気づくのが早くてつまんねーぜ兄貴」
こいつは、ゲンガー。
洞窟の住民の1匹で、お調子者といえば可愛く聞こえるが、ちょっと気を抜けばすぐイタズラだのをして問題を引き起こす面倒な奴だ。
ちなみに、『兄貴』と呼ばれる理由は多分一回だけキツく懲らしめたことがあったからだろう。
今回もどうせ暇だからちょっかいを出しにきたのだろう。
「お前が来ると寒くなるからすぐわかるっての。イタズラ目当てならさっさと出てけよ?」
「兄貴も無粋だよな。俺はこっちの可愛いニンフィアと兄貴がどんな関係か気になって昼しか寝れねえんだよ。そのためにわざわざ俺1匹で来てやったろ」
「関係って言われてもな……」
俺に話しても無理だと考えたのか、ゲンガーのターゲットはニンフィアへ。
「あんた、こいつの彼女かなんかなんだろ?」
こくん。
「やっぱりな。べっとりくっついてんのはもう見たけどよ」
「……なんか問題あんのかよ」
俺が睨んでも、ゲンガーはヘラヘラと笑って宙で揺れるばかり。
からかうように弧を描いた目が再び俺を捉えた。
「なぁ、バトルしねぇか?」
「あ? 突然なんでだよ」
「俺が勝ったら、このお嬢さんをお前から奪ってやる。お前が勝っても、何もなし。どうだよこのどっちもお前に有利な賭けは?」
「おいどっちも俺に良いこと無いじゃねえか」
「なんだ、相思相愛、ってやつなのかぁ? 少しも羨ましくねえな」
奇妙だった。
ゲンガーの表情だ。
口は笑っているから表情は笑っているように見えるが、目はどうだろう。
同じわらう、にしても多分嗤うだし、同情めいたものさえ感じるような気がするのだ。
ゲンガーはおどけた口調で更に言う。
「黙ってるならこのお嬢さん連れ去るぜ? 早くバトルしねえとな」
「……だめ。バトル、だめ」
ニンフィアがさっと俺の足元に駆けてきて、そう訴えてきた。
真剣そのもののニンフィアの表情を見て、俺は決めた。
「条件変更を飲むならやってやる」
「!! だめ、絶対、だめ!」
ニンフィアが声を荒げてリボンで俺の足をぽかぽか叩いた。
しかし、これからニンフィアに降りかかるかもしれない火の粉を払うためなら仕方がないことだ。
「変な条件出しても飲まないでバトル開始するぜ?」
「……俺が勝ったらってやつ。俺も得がないと賭けじゃねえだろ? だから、俺が勝ったら俺には構わんがニンフィアにはもう近づくな」
「……チッ。分かった、それでやってやる」
バトルするスペースを確保するためか、ゲンガーは洞窟の奥に俺を誘導した。
一瞬だけ見た、ゲンガーの不快そうにしかめた顔が変に頭に刻まれて離れなかった。
中央に立った松明の炎が不安定な光を供給する中、俺たちは対峙していた。
ゲンガーに向かって軽く手を振って挑発する。
「お前から来いよ」
「……後悔すんなよ?」
ゲンガーはこういう時素直に乗っかって攻撃をしてくるタイプだ。
それを知っていた俺は、連射されるシャドーボールを体を振って避け、腕で打ち払い、なんなく対処する。
避けられ続けるにもかかわらず、ゲンガーはシャドーボールを発射し続ける。
何故——そう疑問に思ったと同時に、ゲンガーはニヤリと笑った。
「だろうな。でも、これは読めてたか?」
次の瞬間、俺は気づく。
炎のオレンジの光を全て吸い尽くしてしまうような漆黒のエネルギー塊に紛れて、炎と同じオレンジのエネルギー塊が一つ混じっていたのだ。
気合玉、かくとうタイプの技だ。つまり、俺の最も苦手とする攻撃。
避けられないと判断し、俺は左腕で気合玉を受けた。
シャドーボールを受けても痛くも痒くもなかった腕に、鈍い痛みが走る。
しかし、俺はそれに構わずゲンガーへと突進した。
頭を硬化させ、アイアンヘッドを発動してそのまま突っ込む。
ゲンガーは気合玉を打ったエネルギーの消耗が激しく、動けない。
当たった。そう、確信した。
しかし、俺の頭は何に当たることもなく壁に激突していた。
消えたのだ、ゲンガーが。
どこに消えた——闇雲に空間へ腕を振り回しても、もちろん何の感触もない。
そうだ、ゲンガーは確か影に隠れられる。
「影……影?」
呟きを遮るように、下から「クケケッ!」と甲高い笑い声が響いた。
俺の影が唐突に膨れあがる。
いきなり俺の右足のすぐ横から薄暗い色の球が飛び出した。
こんな至近距離では対応することもできず、俺はシャドーボールを真正面から食らう羽目になる。
衝撃を受け流しきれずによろけて、2歩3歩と足を動かす間も執拗に足元からの猛攻は続く。
2回目以降はなんとか避けていくものの、こちらから攻撃しても実体化していないためダメージが通らない。
ひたすら避けながら、頭は対処法を考えるのにてんてこ舞いだった。
(…………くそっ、思いつかねえ……!)
その時、ふとニンフィアが目に入った。
安全な場所へ避難するためだろうか、松明の光が当たらない場所へとニンフィアは移動した。
(……! これなら、どうだ)
避けるため進んでいた方向を90度回転させ、松明へと向かう。
そして、松明を手にとって床へ打ち付け、踏み潰した。
ベキリ、と音がして松明の先端が平らにのされるとともに、辺りは自分の足も見えない暗闇に覆われる。
「きゃ……っ!?」
ニンフィアが驚愕の色の濃い声をあげる。
どこからともなく、ゲンガーが話しかけてきた。
「クケッ、隠れられなくはなったが……暗闇じゃ俺が一方的に相手を見れるんだぜ?」
「あぁ、そうだな……視覚が機能するのはお前だけだよ」
俺はアイアンテール発動済みの尻尾を目の前に大きく一振りする。
今度は強打した感覚が尻尾にあった。
更に、少し離れた壁からの衝突音でゲンガーが落下した場所を把握できた。
まさに追い打ちをかけようと足を一歩踏み出した瞬間に。
ゴゴゴゴゴッ、といくつもの雷が同時に落ちたような耳をつんざく轟音が鳴った。
同時に、技の地震なんかよりももっと強い揺れが洞窟を揺さぶる。
真っ暗闇でのこんな出来事に、俺は身動きをなるべく取らずに丸くなって伏せるしかなかった。
数十秒かけて、揺れと轟音は少しずつ止んでいった。
「おいゲンガー、一旦中止でいいな?」
「……あぁ。松明目の前に持ってってやるから火つけろよ」
口のあたりにコツンと硬いものが当たった。
ゲンガーが持ってきてくれたのであろう口元の松明に向けて、火炎放射を放つ。
「熱っ!? 危ねえな俺に当たるじゃねえか!」
松明の火に照らされたゲンガーの顔は不快そうに歪んでいた。
「悪い悪い。それより、さっきの音の場所分かるか?」
「知るかよ。池の方だったか?」
「とりあえず見に行くぞ」
「へいへい。兄貴の後ろついてくぜ」
「俺は盾か」
今回の轟音はあまりいい知らせの気がしない。
小さい土砂崩れ程度ならあんなにひどい揺れにはならないのだ。
しかし意外にも俺は冷静を保っていた。
最近非日常めいた出来事ばかりでアクシデントに慣れてしまったのかもしれない。
念のため俺の視界の中にいるようニンフィアに伝え、慎重に池の方へ向かう。
池へのいつも通る道の途中で、俺たちは嫌なものを目にした。
「……めんどくせぇな」
ゲンガーが嫌そうに舌を出す。
面倒なことになっているのは確かだ。明日は忙しくなるだろう。
道が天井から崩れて塞がってしまっているこの状況がそれを示していた。
池の様子は見られないが、恐らく池の周囲が広範囲に崩れてしまっているだろう。
「……外から見たら、どう?」
ニンフィアがつんつんと脚をつついて言ってきた。
「それもそうだな。行くぞ、ゲンガー」
しかし、ゲンガーは軽く腕を振ってそれを拒んだ。
「俺はここをすり抜けて様子が見れるからよ。お前らは仲良く迂回でもしてろ」
「おう、頼んだぞ」
ゲンガーが崩れた岩の中に溶け込んでいくのを見送ってから、俺たちは元の道を引き返した。
雨の中をニンフィアを抱いて走る途中、ちらりとニンフィアが後ろを向いた。
すると次にニンフィアは俺に目線を送ってくる。
「どうした」
「……あのポケモン、嫌い……」
「ゲンガーか? まぁ喋り方とか言葉選びとか気に障るやつだけどよ。そんな悪いやつでもねえから、許してやってくれ」
根は優しい、というか色々と考えているやつなのだ。
そうじゃなきゃあの自由すぎるゴーストやゲンガーの集団をまとめるなんてできないだろう。
素直に言いたくなくて捻っているだけなのだと俺は思っている。
「…………あなたが、言うなら」
「そうか。分かってくれてありがとな」
「……うん」
そうこう会話しているうちに、外側の惨状が姿を現し始めた。
「思ってたよりひでぇな……」
「…………」
山の一部が、隕石でも落ちたみたいにくぼんでいた。
当然その下は土砂崩れが起こり、雨も相まってぐしゃぐしゃだった。
ポケモンが巻き込まれてはいないだろうか、それだけが心配だ。
とりあえず腕の中にいるニンフィアをどこかに降ろさなければ。
俺は岩盤を足で削って、ニンフィアが雨宿りできるくらいのスペースを作った。
そして、ニンフィアを下ろす。
「濡れないようにここで待っててくれ」
「……あなたは?」
「俺はこの中にポケモンが埋まってないか確認してくる」
最低限のことを伝え、俺はニンフィアから背を向けた。
しかし、しゅるしゅると柔らかいリボンが俺の脚にまとわりついた。
「早く離してくれ。……どうした」
「私も、やる」
急ぎたいのに止められて少しイラッとしたのは、最初だけ。
キッ、と何かを心に決めたような表情のニンフィアを見て、俺のイラつきはお門違いだとすぐに分かった。
「無駄に濡れちまうからやめとけ。俺だけで十分だ」
「いい。……私も、濡れる……無駄でもいい。邪魔はしない」
一応断ってみたが、予想通りだった。
なにを決めたのかなんて知らないが、あの表情を無下になんてできない。
「……そうか。じゃあ手伝ってくれ」
俺とニンフィアは、並んで土砂崩れに向かって走り出した。
俺たちの頑張りが気に食わないみたいに、雨がどんどん強くなっていく。
それでも俺たちは一切手を緩めることなく土砂の中をかき分けていった。
倒木や岩など大きいものを俺が退けて、ニンフィアがハイパーボイスで土砂をまとめて巻き上げる。
そんな風に一帯を確認する作業は、辺りが暗くなるまで続いた。
巻き上げた土砂を被ったせいで泥だらけの体を雨で洗い流して、洞窟へと戻る。
俺がかばっていたお陰で土砂はあまり浴びなかったニンフィアが先に松明で温まっている。
「もう冷えちゃっただろうが、なるべく冷やすなよ」
こくり。
そしてニンフィアは俺に寄り添うようにくっついてくる。
「おい、俺の体はまだ冷えてるんだが」
「……これが、一番あったかいの」
「んなわけないだろ。鉄とお前の肌じゃどう考えてもお前の方が温かい」
「……心があったかいから、いいの」
もうこんなニンフィアの発言にも慣れてしまっていた。
……はずだった。
心臓が爆発的に跳ね始める。
意味が分からない。俺は何も運動していないのに。
原因不明な動悸のせいで、まともな返事が思いつかなかった。
「……そうか。まぁ好きにしてくれ」
くっついているのはもはや日常と化して埋もれてしまっていたと思っていたが。
今は心臓の鼓動の一回さえ強く、遅い。
最後まで鳴いていたヨルノズクが鳴き止んだ。
これで、ほとんどのポケモンはもう眠りの落ちたのだろう。
これから昨日までのようにサーナイトを呼ぶのだが、なぜか気が乗らなかった。
どうしようか迷っている間に、目の前の空間がねじ曲がる。
「呼ばないなんて今日はどうしたの? いつもの時間だから来ちゃったけど……」
勝手に来たのか……。
仕方がないことなのだが少しだけサナが恨めしい。
「ごめん、今日は帰って」
「え? どうしたのよ」
そんなに根掘り葉掘り聞かなくても……。
どうでもいい相手なら舌打ちして罵倒していても、サナ相手じゃそうもいかない。
大事な仲間で、大事な理解者で、大事な仕事仲間だから。
「……ちょっと、考えたいことがあって」
「分かったわ。今日は来なかったことにする。……でも、相手に同情してたらいつの間にか、なんてやっちゃダメよ?」
サナはそれだけ言うとニンフィアの言葉も聞かずに去っていった。
……実際に現場を見ていなければ、この気持ちは分からない。
サナも分かっていないだけなのだ。それならば仕方がない。
ニンフィアは洞窟を抜け出し、月を眺めながら外周を歩き始めた。
着いた先は、未だに惨状が広がっている土砂崩れの現場だった。
確認した限り1匹も巻き込まれたポケモンがいないのは不幸中の幸いだったが、土砂に流されて木が多く折れたせいで住処を失ったポケモンは無視できない数いた。
土を掘って、貯めてあったところから持ち出したきのみを埋め、また掘ってきのみを埋め、繰り返す。
これが何になるかは分からない。こんな小さい力では恐らく無駄だ。
分かっていつつも、ニンフィアはひたすらきのみを植えていった。
翌朝は、また昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。
……こんな酷い状況を引き起こしておいて、空も随分と自分勝手だ。
こんなことに憤っていても仕方がないので、俺は作業に着手し始めた。
「……何すればいい?」
若干俺から離れ気味のニンフィアが聞いてきた。
「とりあえず木を元に戻してやらないとな。苗を植える。戻るのに時間はかかるが」
まず土砂崩れ現場の端から、苗を植える穴を掘っていく。
雨で柔らかくなっている土はかなり掘りやすかった。
しかし、爪に何やら土とは違う感触のものが当たる。
「……ん? これは、リリバのみか?」
この大きさ、硬い皮、リリバのみには間違いない。
だが何かが変な感じがする。正体は不明だ。
「……あっ」
ニンフィアがふと声を漏らした。
それがヒントとなった。
変な感じは、既視感。そして、このリリバのみは俺がストックしてあるもの。
ヘタの切り方が俺のそれだったから、確実だ。
俺はこんなことやってないし、とすると……。
「これ貯めてあったやつじゃねえか。ニンフィア、なんかやったのか?」
「……その、ごめんなさい」
しゅん、とニンフィアはしょぼくれる。
「いや、別にダメなことじゃねえんだ。やってくれたなら、ありがたい。ただ、早めに復活させたいからここにはもうある程度育った苗を植えようと思っててな」
「じゃあ、掘り返さなきゃ。……ごめん、なさい」
「そんなことしなくていい。せっかく植えてくれたんだ、新しい苗にしよう」
それを聞いた一瞬、ニンフィアの顔が輝いた。
純粋な、心の底からの嬉しさが現れたような、天使の笑みだった。
ニンフィアはそれを隠すようにまた俯いた。
「……ありがとう」
作業は何段階かに分かれているものの非常に簡単だ。
まずニンフィアがきのみを植えた場所の周りを掘る。
次にゲンガーたち筆頭にサイコキネシスを使えるポケモンたちにお願いし、それを苗木を育てる場所へと土ごと移す。
最後に空いた穴に俺が苗木を埋め込むのだ。
対処が終わった土砂崩れゾーンも半分を超えた辺りだろうか。
相変わらず勢い衰えずきのみを掘り返し続けるニンフィアに、一言かけた。
「ちょっと休まないか?」
「まだまだ。できる」
「いや、俺がちょっと疲れたからよ。付き合ってくれ」
「ん……わかった」
強くはないものの日差しに当たり続けた体は少し暑かったので木陰へと移動した。
俺が座ると、自然にニンフィアが寄り添って側に座ってくる。
「なぁ、なんで夜にきのみ植えたりなんかしてたんだ?」
ふとそう思って聞いただけだったが、ニンフィアは大げさに頭を振ってみせた。
「特にない。こういうこと、よくやるから」
「それにしたって夜にまでやることはなかったじゃねえか。お前も寝る時間欲しいだろ」
更に問うてみると、ニンフィアは心の中の何かに折れた模様だった。
「……その、申し訳なくて」
「申し訳ない? どういうことだ」
「その……カイスのみをあそこに置いたからあんなことになっちゃったのかな、なんて考えたら」
「んなアホなことがあるか。きのみごときで割れるほど俺が管理してる洞窟は脆くねえよ」
「……そっか。…………ありがと」
全く有り得ないような想像をして、その結果が夜中ずっと作業を1人で進めていた理由だとニンフィアは説明した。
責任感が強いというのか、他のポケモンに責められるのが怖い臆病なのか。
優しいやつだな、で済ませるだけでいいのかもしれないが、何か理由がありそうで気にかかる。
「そういや今さっき、『こういうことをよくやる』って言ってたよな? ザロクのみの皮で作ってたやつ。……ここに来る前の話って、聞いていいか?」
「え……その、あの……」
あんまり話したくない事なのだろうか。
それとも、思い出したくもないようなこと……?
「悪い悪い! 別に無理に話さなくていい。知らなくたってお前とは居られるしな」
「……ううん。ちょっとだけ、話す」
遠い過去を思い出しているのか、ニンフィアはしばらく空をうち眺めていた。
やがて話がまとまったのか、顔を地面に向けて話し始めた。
「えっと……私ね。元は人間の街で暮らしてたの。人間とは暮らしてなかったけど」
「どういうことだ? 人間はポケモンと一緒に生活してるくらいしか聞いたことないんだが」
「ううん、違うよ。えと、合ってるポケモンもいるけど……私は…………」
リボンで地面に器用に絵を描きながら。
何の気なしに言い放つ。
「……私は、生まれた瞬間に、捨てられたの」
「…………っ」
予想を遥かに超える境遇を聞かされて、思わず息が詰まった。
「最初に聞いたのは、その卵を持ってたトレーナーの、舌打ち」
ぐしゃぐしゃぐしゃっ! と地面に描かれていた絵が、描いたのと同じリボンで消し去られて行く。
「それから、大きくなるまで、人間たちの街で野生のポケモンとして生きてた。それから、ここからちょっと離れた森に住んでて、今ここにいるの」
もはや絶句するより他なかった。
俺は最初から野生のポケモンとしてここに生まれて、進化した後の初対面のやつに怖がられること以外は平凡に過ごせてきた。
顔見知りのポケモンは俺のこともちゃんと知っていて仲が険悪になったりすることもなかった。
だから余計に、そんな慈悲のない世界が信じられないのだ。
「終わり。……疲れた」
単に疲れて横になっただけなのだろうが、俺の脚の上に寝るニンフィアがいつもよりも小さく見える。
「……そのトレーナーは、俺が会ったらぶっ飛ばしてやる」
「……え?」
「今更ニンフィアを取り返しに来てももう遅いぞってことだ」
「その……アイツは、私のことなんか必要じゃない。じゃなきゃ、捨てない」
「じゃあたまたま通りかかってもぶっ飛ばす」
仰向けに空を眺めたまま、ニンフィアはいくつかの気持ちが混ざったような表情。
「変なの」
「何がだ?」
「同情するポケモン、多かった。……でも、あなたはちょっと違う」
「違う? トレーナーをぶっ飛ばすってやつか?」
「うん……説明は、うまくできない」
「そうか。まとまったらまた聞かせてくれよ」
するとニンフィアは俺から顔を隠すように寝返りを打って、それから微かに震えた声でボソッと呟いた。
「……あ、ありがと。……………………ごめん」
「あ? よく分からんが、おう」
それからしばらくお互いに黙っていたら、下の方から小さく規則正しい息遣いが聴こえてきた。
夜も朝もずっと動いていたのだ。むしろ疲れて当然。
ここは寝かせておいてやったほうがいいだろう。
ゆっくりとニンフィアの滑らかな毛先を少し撫でた。
することもなく暇で、ただ意味もなく空を眺める。
……ニンフィアを膝から下ろして自分は作業を続ける、なんて思いつきもしなかった。
ふわり、ふわり、と意識が心地よく揺らめく。
まるで、チルタリスの綿に全身を包まれているような脱力感だった。
その綿の中で意識はゆっくりと確実に上昇していって、ニンフィアは自分が眠りから覚めたことがはっきり分かった。
普段あまり感じることのない安らぎに身を任せてそのまま寝ていようかと思ったが、ふと気まぐれで目を開けてみることにした。
頭の芯に残る眠気に重くなる瞼をゆっくり開いて——
「ひゃっ……!?」
思ってもないのに喉が勝手にか弱い声を出した。
すぐ目の前にボスゴドラの顔があったのだ。
バッチリ目があって、ニンフィアは再度勢いよく目をつぶった。
「あぁ、悪いな。ちょっと顔赤かったもんで、熱かと思ってよ」
「多分、ない。元気」
「そうか。ならいいけどよ」
顔が赤い理由はよく分からないが、状況にひるむことなくニンフィアは周りの状況を見回した。
確か寝た時は木陰だった気がするが、移動したらしく今の場所は洞窟だ。
そして、夜まで寝てしまっていたらしく、外は真っ暗。
土砂崩れの復旧作業は終わったのか、そっちも気になったが今はそれよりも先に聞くことがある。
「……あの、なんで、ここ?」
私がいるのは、ボスゴドラの膝の上。
確かに寝た時は木の下でここに乗った気もするが、周りを見るに洞窟に戻って来ているようだし。
座ったまま移動するわけもなし、なぜわざわざ自分を移動させ、膝の上に置き直したのかが分からない。
「そのまま地面に寝かせておくのが嫌でな。本当なら今日の土砂崩れの処理だって汚れちまうからお前にはやらせたくなかったんだけどよ」
……なんでコイツはこんなに優しいんだろう。意味がわからない。
ボスゴドラは、ニンフィアの本性や目的を全く知らない。
だから、惚れた弱みならぬ惚れられた弱みなだけなのかもしれないけれど。
さっきまで普通の鼓動だったはずなのに、いつのまにか心臓が存在感を主張し始めている。
「…………あり、がと……」
無駄に大きい鼓動で喉が詰まって、一言言うのが精一杯だった。
元々が多くを喋らないように接していたから大丈夫だと思う。
結局一番分からないのは、おかしな挙動の自分の心臓だった。
『ニンフィア? 大丈夫? 寝てるの?』
頭の中に響く、テレパシーの声。
一瞬にして目が冴える。
いくら万能なテレパシーといっても流石に物理的距離はどうにもならない。
つまり、サーナイトがすぐ近くにいるということ。
今日は言わなきゃいけないことがあったのに……!
ニンフィアはボスゴドラの腕の中から急いで抜け出した。
「……ご、ごめん。寝ちゃって」
「別にいいわよ。疲れてるとかなんでしょう?」
「うん……ありがと」
そうじゃない、今回の本題はそうじゃないのだ。
「……ごめん。ちょっと喋りすぎた」
サーナイトの目が少し厳しくなった。
「…………どこまで?」
「私の出身とか。私のこと以外は喋ってない」
「そう……昨日気をつけてって言ったばかりなのに」
「本当にごめん……」
騙している側の私たちにとっては痛恨のミスだった。
あの会話で悟られたかは分からない。だが、危険度が少なからず上がってしまったのは確かだ。
「でも、それによって油断させられることもあるわ。もしかしたら、いい方向になったかもしれないし。落ち込まなくていいわ」
サーナイトのフォローがありがたくて、申し訳なかった。
「とりあえず、きのみは持ってっておいて。それなりの量あると思う」
「分かったわ」
すす、とニンフィアが差し出したきのみをサーナイトは腕に抱える。
サーナイトは洞窟に背を向けて一旦帰る素ぶりを見せたが、こちらを振り返った。
「そうそう、お願いがあるのだけど」
「ん、なに?」
「一旦こっちに戻って来れないかしら」
それを聞いた瞬間、あの場所の光景が鮮明に蘇る。
この世で唯一の、私を必要としている場所。
私がいないと、みんなが心配してくれる場所。
私がいないと、みんなが寂しがってくれる場所。
今までは忘れていられたのに、その言葉を聞いた途端急に望郷の想いに駆られた。
この場合故郷じゃないから望郷ではないかもしれないけれど。
もちろん私の返事は決まっていた。
「うん、分かった。出て来れたら呼ぶから」
「えぇ。準備しておくわ」
サーナイトはにこりと微笑みを投げかけて、テレポートで帰って行った。
ボスゴドラの腕に戻っても、柄にもないワクワクした気持ちは収まらない。
流石にそれで寝れないなんてことはないだろうけど。
昨日の忙しさが嘘のように、何もない朝だった。
俺がプニプニとした食感のヨプのみをかじっている横では、珍しく少し眠そうに目をこすりながらビアーのみを食べるニンフィアがいた。
「まだ眠いのか?」
「ん……少し」
「まぁ日差しも暖かいしな。俺ももう少し寝てもいいな」
外の柔らかい日差しを見ながら、かじりかけのヨプのみを全て口に放り込んだ。
「……今日、一人で外に出る。いい……?」
ニンフィアが下から俺を覗き込むようにこちらを見ていた。
「おう、好きにしろよ。別にずっと俺といなきゃいけないわけでもねえし」
もう一個のヨプのみを取ろうと下に目線を向ける。
すると、俺のヨプのみは既にニンフィアの脚が押さえていた。
少し頰を膨らませて、俺を見る。
「……私、いらない? いなくても、寂しく……ない?」
少し、ほんの少しだけ、ドキッとした。
同時に、ちゃんと伝えきれていなかった自分の言葉に後悔した。
「んなことねえけどよ。でもそれで束縛なんかしねえよ」
「……そっか」
何か納得した表情をして、ニンフィアは俺のヨプのみを離した。
そのまま勢いよく最後のビアーのみを食べきるニンフィア。
そのまま、
「……いってきます」
と呟いて、小走りに洞窟を去っていった。
その足取りは羽根のように軽く、ニンフィアにしてはかなりご機嫌なのだろう。
どこに行くのかは知らんが、楽しそうならそれで良い。
嬉しげな背中を見送りながら、ニンフィアが持っていた最後のヨプのみを、まるまる1つ口に放り込んだ。
それにしても、割とあっさり行っちまうもんだな。
どれくらい走ったかはこの辺りの土地勘はないので分からないが、とにかく森を抜けた。
ボスゴドラが追ってきている様子はないし、ここまで来れば大丈夫だろう。
ニンフィアは弾む息をしばらく整えて、それから大きく息を吸い込んだ。
普段何気なくやっているエコーボイスでの連絡にも、これからのことを考えればついつい気合が入ってしまう。
森の中のように障害物が少ないからか、いつもより声は響かなかった。
ちゃんと届いたかな……、そんな心配も、いつもならしないだろうに。
目の前の空間がとろけ始め、向こうの景色が曖昧になる。
「早く行くわよ!」
「うん!」
サーナイトとニンフィアの会話は、それだけだった。
サーナイトがニンフィアに触れ、そのままテレポートを発動する。
一瞬めまいのような感覚が脳を揺さぶり、目をつぶった次の瞬間。
「「「「「にんふぃあさ〜〜〜ん!!」」」」」
ニンフィアの名前を一斉に呼んだのは、たくさんの子供たちの声。
目を開けた瞬間の光景に、ニンフィアはついつい微笑みを隠しきれなかった。
オタチ、コリンク、エレキッド、ニョロモ、ネイティ、などなど種類もタイプも違う小さなポケモンたちが我先にとニンフィアの元に駆け寄ってきているのだ。
寂しかった、と泣くポケモンもいれば、元気!?とぴょんぴょん跳ねながら聞いてくるポケモンまで、反応は様々だ。
けれど、ニンフィアには分かる。
この子供たちは、ニンフィアの帰りを心から喜んでくれている。
自分にはニンフィアが必要だから、とかそんな損得も考えずに、ただ喜んでくれるのだ。
こうやって、自分が面倒を見てやっているポケモンたちに囲まれている時だけは、自分が幸せだと思える。
「よしよし、みんな! サーナイトお姉さんが朝ごはんの準備してるから、手伝おう!」
「おー!」と子供たちは声を上げ、また我先にときのみを用意するサーナイトの元へ向かう。
走っていくたくさんの小さな後ろ姿を眺めていると、真横に大きな影が並んだ。
「よう。久しぶり……でもねえか」
私と目線を合わせるためかその場に座ったのは、ガブリアス。
「割と最近だよね、会ったの」
「3日前だもんな。……そうだよな」
ニンフィアとも子供たちとも違う方へガブリアスは視線をやった。
ガブリアスの後ろから覗き込んで何があるのかを見てみたが、特に何もない。
「……な、なんだよ」
「いや、なに見てるのかなって」
「別に何も見てねえよ。ぼーっとしてただけだ」
ギロッとこちらを睨むガブリアス。
普通の表情でも眼光は鋭いので、本人にその自覚はないのだろうけど。
目元と鼻先、それと頰に薄く赤い色が差しているのがなぜなのかまではニンフィアには分からなかった。
ガブリアスは、お茶を濁したいみたいに唐突に話題を変え始めた。
「な、なぁ。お前さ。大丈夫なのか?」
「大丈夫って、なにが?」
「アレに決まってんだろ。その……ボスゴドラだったっけ? 一緒に住んでるって話」
「あぁ、それなら大丈夫だと思うよ。ちょっとすり寄れば落ちるし」
「そりゃうr、っ簡単だったな!」
頭に何かがついたのか、ガブリアスが頭を軽く振り始める。
ちょうど同時に、サーナイトが声を張った。
「ガブ〜〜! あとニンフィアも! 運ぶの手伝って〜!」
「おう、分かった!」
「はーい!」
それぞれ返事をして、ニンフィアたちは子供たちの群れの中に飛び込んだ。
1日4回の全員集合——3食と寝る時だ——のうちに1回が終わって、子供たちはまた自由に森の中へと繰り出して行った。
「なんか、変わってないね」
一旦仕事がなくなったため、ニンフィアたちも休憩の時間だ。
「……何百日も離れてた、みたいな言い草だけど、そんなに離れてないわよね?」
「まぁね。……本当は1日だって離れたくないもん」
「……そうね。私もここが好きよ」
少し空気がしんみりとしてきた。
ニンフィア自身こういう雰囲気は苦手なこともあって、内心困惑しつつとりあえずサーナイトを見上げる。
気づいたことがあった。
「……なににやにやしてるのよ」
サーナイトが睨みつけてくるが、滲み出る優しいお姉さんオーラのせいで全く怖くない。
「いや。『好きよ』って言った瞬間、どこ見てたの?」
「ど、どこって、どこも見てないわよ。ぼーっとしてたわ」
目の泳ぎ方からして完全に嘘である。
サーナイトはとにかく分かりやすいのだ。
「嘘ついちゃダメだよ。ガブの方見てたじゃん」
「た、たまたまよ!」
一瞬でサーナイトの頰が真っ赤に茹で上がった。
反応が面白いからもう少し遊ぼうか。
「じゃあそれはたまたまでいいとして……私がいないうちに何もなかったの?」
「…………な、ない、わよ……」
とさっきまでとは一転し、サーナイトはしゅんとしょげてしまった。
「ガブは気づいてくれるようなポケモンじゃないって。サナが行かなきゃ」
「……行けないのよ。フラれるのが怖いとかじゃなくて」
サーナイトは恨めしげにニンフィアを睨みつけた。
今度はおねーさんオーラすらも消えている。
少しプレッシャーに押されて、ニンフィアは一歩後ずさった。
「え……なんで?」
「なんでってあなた、ガブが、あなたを…………」
「ガブが?」
聞き返すと、一転してサーナイトは呆れたような表情をした。
「呆れたわね……あの言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「えぇー? どういうこと!?」
「知りません! さぁ、せっかく作業をやってくれるポケモンが増えたし、片付け手伝ってくれるかしら?」
「い、いいけどさぁ……」
結局、サーナイトの急な話題転換にニンフィアはついていくしかなかったのだった。
「……暇だな」
俺の小さなつぶやきは、誰もいない洞窟の壁に2、3回跳ね返って消えていった。
ここ最近の暇な時間はだいたいニンフィアが絡んできていたのでそこがぽっかりと空いてしまったのだ。
そもそもニンフィアが来る前はこんな時間も1匹で過ごしていたはずなのだが……どうにもその前の生活とやらを思い出せない。
きのみでも拾いに行こうか?
……動く気がしない。
日も照ってるし、奥の方で涼もうか?
……太陽光に温められているとは思えないほど、体の芯が冷たい。
そんなこんなで昼を過ぎてもグダグダと寝転がって日に当たり、無意味に地面をガリガリ削っていたのだった。
ここまでやる気が出ないのは初めてだ。
原因なんて、思いつかない。
……1つを除けば。
「……ニンフィアがいない、だけなんだよなぁ」
別にいなくたって暮らせていたのだ。
だから、それが原因では多分ない。
この、心に穴が空いたような言いようもない物足りなさも、多分何かやることを忘れてしまって不安感だけが残ったのだろう。
「……はぁ」
気怠さを吐き出そうとため息をついてみたが、逆に増幅されただけ。
葉っぱが一枚、風に乗って目の前で寂しく踊った。
せっかくだからと子供達と遊んでいれば、いつのまにか日は傾いて空も綺麗に焼けていた。
「……もう帰らなきゃ」
子供達から顔を背けて、ニンフィアはこっそりと呟く。
寂しい。本当はずっとここにいたいのに。
……でも、仕方のないことだ。この子供達のきのみを調達しなければ、この子供たちは生活できない。
「……よし。みんな帰ろう!」
一緒に遊んでいた子供達を、優しく引っ張って住処へと連れて行った。
すると、既に他の子供達がほとんど全員集まっている。
何があったのかと思った次の瞬間。
子供達がまた一斉に、それこそ朝帰ってきたときと同じくらいに必死でニンフィアの元へ走ってくる。
しかし、朝とは違ってみんなの顔は笑顔なんかじゃない。
「「「「「にんふぃあさ〜〜ん……!!!」」」」」
火がついたように、みんなが一斉に泣き出した。
別に帰ってこれないほど遠くへ行くわけでもないし、ましてや今生の別れなんてわけでは全くない。
それでも、やっぱり子供達は純粋に泣いてくれるのだ。
あまりにたくさんの涙に囲まれて、ニンフィアまでもらい泣きをしそうになった。
格好がつかない、となんとか堪えて、子供達に離れてもらう。
全く離れてくれなかったので、サーナイトとガブリアスにも手伝ってもらって。
1匹1匹を全員忘れることなく撫でてあげ、ひとまずのお別れだ。
「ほら、お前ら。『いってらっしゃい』ちゃんと言え」
「「「「「いってらっしゃーーーい!」」」」」
ガブリアスの促しで、てんでバラバラな『いってらっしゃい』コールに包まれながら、ニンフィアはサーナイトとテレポートした。
洞窟の目の前の道に、そう大きくない影ができた。
この大きさは——ニンフィアか。
やっと帰ってきたらしい。
もう日は落ちる寸前だ。
俺は洞窟の奥を向いて、今日唯一やった松明の調達の続きをし始める。
木はもう持ってきてあるので、燃えやすいように先端を小さく割くのだ。
理由はわからない。分からないが、間違えて踏んで割れてしまった時の方がよく燃えた経験があった。
ちまちまと木をいじるうちに、小さく足音が聞こえてくる。
木を割く爪が、上手く動かない。
まるで、初めて親友のバンギラスに会った時のようだった。
……いや、たまたま症状が同じなだけだろ。アイツと会った時は緊張だったけど、なんで今緊張しなきゃいけねえんだっての。
訳の分からない思考が展開されて困惑するうちに、足音がどんどん近づいてきた。
ぺた、ぺた、ぺた——
(……ん?)
足音が、すっと消えた。
一体、俺の後ろで何が起こったのだろうか。
恐怖に突き動かされて俺は勢いよく振り向いた。
俺に見られたことを察して、影が俺に飛びついてくる。
「……ただいま」
影は俺に抱きついて顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「……おう、おかえり」
頭を軽く撫でるとニンフィアは更に強く抱きついてきた。
「突然足音消えるからびっくりしたぞ」
「……だって、帰ってきてるのに、気づかないから」
曰く、驚かせようと思って忍び足で俺に近寄っていたのだそうだ。
まんまと驚かされたが、嫌な気分は一切なかった。
急に動く気力が出てきたのは、空も青くなり始めて本格的に急がないといけなくなったからか。
サクッと松明作って、夕飯用意しねえとな。
まだ加工し終えていない木の棒を手を伸ばして取った。
……寝た、かな?
ボスゴドラが眠りに落ちたのを確認し、ニンフィアはボスゴドラの腕の中を抜け出した。
もはや毎日の恒例行事だ。
いつも通りエコーボイスでサーナイトを呼ぶ。
聞きつけたサーナイトがテレポートしてくるのも、慣れたのか早くなっている。
「今日は?」
「ん、きのみはいつも通り持ってって。他は……ないかな」
「分かったわ。当分は保つから大丈夫だけど……」
「多くあるのに越したことはないでしょ? 明日も呼ぶね」
「うん……分かったわ」
頷いてテレポートしていくサーナイト。
そんなに心配そうな顔しなくても、上手くやるのに。
すたすたとニンフィアはボスゴドラの腕の中に戻った。
少し冷たくて、少し温かい、心地よい温度に包まれて、目を閉じた。
……おかしい。どう考えても、ありえない。
俺は独り首を傾げていた。
目の前に積まれているのは大量のきのみ……のはずだったのだが。
いや、きのみであることは間違いない。
だがどう見てもこの量は異常だ。少なすぎる。
ここ数日でなんとなく減り方がおかしいような気はしていたが、いつも確保してあるはずの量の3分の1ほどしかないのだ。
もちろん俺もニンフィアも昨日はこんなに減るほど食べていない。
誰か洞窟の住民が盗んででもいるのだろうか。
別にきのみを持って行くのは構わないのだが、無断でというのはまた違う話だ。
……懲らしめるために罠でも張っといてやろうか。
引っかかってくれるかは知らんが、成功したら「次は俺に言ってから持っていけ」と注意ができる。
とりあえずやってみるか、程度の気持ちで罠を仕掛けることに決めた。
罠、と言ってもそう難しいもんじゃない。
ただの落とし穴だ。ディグダが地中に掘った穴を使うので、無駄に深くてそう簡単には抜け出せないが。
きのみの山の周りを囲うように地面を掘り、地下で掘られているディグダの穴と接続する。
そのまま少し深くしておいて、それからきのみの葉っぱを穴に乗せ、表面だけうっすらと地面を被せてやれば完成だ。
さて、どんな奴が盗んでいるのやら。
ダメ元の期待半分、好奇心半分の気持ちで俺はその場を去った。
きゃあああああああッ! と昇る満月をも揺るがすような悲鳴が洞窟に反響した。
その声を聞いて、もちろん俺は飛び起きた。
音源は洞窟の奥、もしかして罠に引っ掛かりでもしたのだろうか。
慌てず騒がず、しかし急いで松明を準備する。
逃げられても困る、と全力疾走で現場に向かう。
やっと着いたか……と肩で息をしながら、最後の角を曲がって——
見えたものに、絶句した。
「…………」
ふわふわと柔らかそうなリボン。
深い穴からかろうじてそれだけが覗いている。
「…………」
無言で、穴にゆっくりと近づく。
しかし、似ていたけど別のポケモンだった、とかゲンガーのイタズラの幻惑だった、なんてこともなかった。
「ッ……」
「…………」
そこにいたのは、紛れもなくニンフィアだ。
俺に見つかったことを察して鋭く息を詰める表情は、俺には見たこともないものだった。
信じたくはない。信じたくはないが、これは夢でもなんでもなかった。
「……なぁ、なんでここにいるんだ?」
「…………」
だんまり。本当に俺の勘違いである確率が、更に下がる。
「答えてくれよ。言わなきゃ分からねえ」
「……ちょっと、お腹が減ったから」
ボソボソとニンフィアは申し訳なさげに言った。
「本当か? 他に、理由もないんだな?」
「うん……ごめんなさい」
本当に俺の勘違いだったのかもしれない。
仮に盗んでいたとしても、反省しているようだしこれでいいか。
ニンフィアを穴から引き上げて、戻ろうとしたそのときだった。
唐突に目の前の何もない空間がうねり始めた。
流石の俺もこんな現象は見たこともなく、2歩3歩と引き下がる。
ニンフィアが、ギョッとしたような表情で固まっていた。
波打って揺れる空間の中から、新たにポケモンが出現する。
「ニンフィアー、ちゃんとやれて…………」
明るい声をニンフィアにかけようとしたそいつは、俺の姿に気づいてそのまま固まった。
見知らぬポケモンだ。
透き通るような緑色をした頭と、胸のあたりの深紅の……これは、触角だろうか。よく分からないものが特徴的だった。
「え、えと……こんばんは〜」
「何しに来やがった」
にこにこと対応するそいつに対して、俺は簡素で威圧的に見下ろした。
見知らぬポケモンがいきなりこんなところへ現れたのだ。警戒しても当然というものだろう。
「いえ〜、失礼致しました〜」
そういうと、謎のポケモンはすぐさま片手を虚空に手をかざして空間を歪め始めた。
「おい、何してやがる!」
俺の大声なんてまるで聞こえていないように無視し、歪んだ空間へと入り込んでいく。
歪みが一瞬で元に戻り、後にはもういた痕跡は何1つ残っていない。
「なぁ」
ニンフィアがびくりと体を揺らす。
そう、さっきのあのポケモンはただ一つ、俺に残していったものがある。
「……仲間がいる、ってことは。やっぱり盗みが目当てだったわけだな?」
そう言い放った俺は、しかし唖然とさせられることになる。
俺の言葉を聞くや否や、ニンフィアが淡く纏っていたオーラが激変したのだ。
ふんわりと温かい印象だったはずなのに、瞬きの直後には攻撃の色一色の表情だった。
さっきまでの温かさはまるで嘘だったみたいにもうかけらもない。
「もちろん。じゃなきゃなんであなたみたいなポケモンに気持ち悪いくらい擦り寄らなきゃいけないの?」
……素直に驚いた。
口調までもがもはや別のポケモンだ。
普通、ここまで自分を偽れるものなのだろうか。
「流石に俺もここまで違うとは思わなかったがよ。なんでわざわざ性格まで変えてたんだ?」
ニンフィアは不快そうに顔を歪めて蔑むように俺を見た。
「あの無口? 余計な情報漏らさないためよ。敵に情報を与えない、なんて当然の戦略でしょう?」
「確かにな。お陰で俺はまんまと騙されたわけか」
自分に少し落胆しつつ、頭は計算も立つくらいには冷静に回り続けていた。
「なぁ。にしてもなんできのみなんだ? あんなどこでも手に入るもん盗むまでもねえだろ。それに、この洞窟には宝石やらなんやらもあったはずだ。お前の出身じゃ価値がない、なんてこともねえだろ?」
「……盗むものなんて、あなたには関係ない」
ニンフィアの反応が変わった。
今までは攻撃性を前面に出したトゲトゲしい雰囲気だったのに、うって変わって何かを隠したいみたいに顔を俯ける。
「一応俺は盗まれた側なんだけどな」
「関係、ないの!」
我慢の限界とばかり叫んで、ニンフィアはミミロップのごとく逃げ出した。
俺は追いかけなかった。
代わりに、力の限り声を張る。
「待て!」
びくり、とニンフィアの体が跳ねた。
ニンフィアの足が止まる。
チャンスだ。俺は続けて喋り始めた。
「……お前がきのみを盗んだのは理由があるんだろ? 興味もねえから、無理には聞かねえけどよ。俺は盗んだことなんか気にしないし、報告してくれりゃこれからも持ってってくれて構わない。だから——何も無かったみたいに、残ってくれて良いぞ」
久しぶりに長々と喋ったせいで、呼吸が乱れて脳が震える。
ニンフィアは振り返りもせず背中越しに俺に言い放った。
「……本当に私に惚れたの? アレは嘘だと言っているのに…………」
「んなもんじゃねえよ。困ってるやつを助けるのはそんなに変か」
即答した。
ニンフィアは顔だけ振り向いて、ムキになって食い下がる。
「私、ずっと敵意を削ぐ波導をあなたに当てていたの。だから、あなたは洗脳されてるだけなんだけど」
「関係ねえよ。誰だろうが助けてる」
「…………っ!?」
ニンフィアは、無言で洞窟を出ていった。
松明に照らされた滑らかな頰は、炎よりも色濃く紅色が差していた。
……もう、出口。
洞窟を完全に出た瞬間、ニンフィアは何かに追い立てられるように走り出した。
細くなってきている月が映る水たまりを避けもせず突っ切って、走る。
そうして寝静まった森を抜け、平原へ出た。
障害物がないせいで、冷たい夜風がニンフィアを直撃する。
息を整え、エコーボイスを放つため大きく息を吸い。
「…………」
何故か、その息を目一杯吐き出して後ろを向いた。
ちくり、と胸が痛くなって、そこから気怠さが身体中に広まる。
……早くサーナイト呼ばなきゃ。
水に濡れたときみたいに頭をぶんぶん振って、倦怠感を追い出す。
しかし心臓を締め付ける、苦しいような心地いいような、訳がわからない痛みは消えなくて。
……なんで私、寂しくなってるの? これじゃまるで、本当に——
もう一度頭を振って、バカな考えを追い出した。
息を吸って、エコーボイスを繰り出す。
音がまるで物を投げたみたいに実体を持って飛んでいくのも、しばらくお休みだ。
噂が広まるかは知らないが、念のため誰かに見られたりするのは抑えめにしなければならない。
子供達と遊べるからいいけれど。
エコーボイスを聞きつけてやってきたサーナイトは、完全にしょげていた。
「……ごめんなさい。足引っ張っちゃったわよね。あのあと、どうだった?」
「これ以上嘘もつけそうじゃなかったから出てきた」
ボスゴドラに引き止められたことは、なんとなく話したくないと思った。
「本当に、ごめんなさい。私が行かなければバレなかったかもしれないのに」
「大丈夫。どうせそろそろボロが出始めたころだったし」
「そう? ……それならいいけど」
一応入れたフォローだったが、実際そうだった。
先ほどの場面で仮に丸く収まっていたとしても、警戒されるのは必至だっただろう。
サーナイトも少しは気が和らいだようだ。
「それより、早く帰りたい。ちょっと疲れたし」
「分かったわ。行きましょう」
脳みそがぐらっと揺さぶられ、景色が歪む。
瞬きをした次の瞬間には、もう目的地だ。
子供もみんな寝静まっていて、ニンフィアの唯一の家は耳に痛いほど静かなのだった。
「もう、寝ましょう。色々考えるのは明日でいいわ」
「……そうだね」
サーナイトと分かれ、寝床へと一直線。
なんだかどっと疲れが押し寄せてきていて、一刻も早く横になりたかった。
葉っぱを重ねたベッドに倒れこむ。
この葉っぱの少しザラザラした感触も、久しぶりだ。
脱力して息を吐き出すと、少し寒さを感じた。
ぶるり、と震えて葉っぱの中に潜り込む。
最後にここを使った時は全然寒くなかったのに、なんでだろう。
何か物足りないような気分に襲われたが、謎よりも疲労が勝ってニンフィアが眠りに落ちるまでにそう時間はかからなかった。
不意に自分が目覚めたことがわかった。
まだ目を瞑ったまま、とりあえず腕を動かした俺は、違和感を覚えた。
何故か、腕が空を切ったのだ。
いつもならそのまま目を瞑って心地よく二度寝に入るのだが、仕方なく目を開ける。
……あれ、ニンフィアがいない。
どこ行った? と少し考えて、思い出した。
「……ほんとどこ行ったんだろうな」
何が何故か空を切った、だ。
昨日の夜に出て行ったんだから、いるわけがないのに。
「俺は会う前の生活に戻るだけだし、まぁ好きにさせてやればいいだろ」
いつも独り言は心の中で言うだけだが、なんとなく声に出してみた。
「そうだな、やっときのみを盗まれずに済むしな」
予定外の返事が背後から飛んできた。
「驚かすんじゃねえよ、ゲンガー」
「お前が驚くかどうかはどうでもいいんだがよ」
ゲンガーは少し不機嫌そうに歯を噛み合わせていた。
「なんでこんな朝早くに来たんだよ」
「俺にゃ朝遅くだぜ。兄貴に一言言おうかと思ってよ、わざわざまだ起きてんだ」
そういえばこいつは本来夜に活動してたんだったか。
最近は普通のポケモン同様昼に活動しているからすっかり忘れていた。
「どうせロクなこと言わねんだろ?」
「ケケッ! 当たりだろうな。……『だから言ったじゃねえか』」
「言いに来たのはそれか? よく分からんから解説してくれ」
「俺が最初に接触しに行ったときのこと覚えてねえかよ? 特にバトルの条件で」
「あ? あー……お前がが勝ったらニンフィアを奪って、俺が勝ったら何もなしってやつか」
「あぁ。その時言ってやったろ。お前に有利な賭けってよ」
寝起きであまり回らない頭でも、そこまで言われればすぐに分かった。
「……お前はあれだけで分かってたのか。ニンフィアの本性」
「あぁ。むしろなんで兄貴は分かんなかったんだよ? 情けねえな」
「俺も最初は怪しいと思ってたんだがよ。どう怪しいのかまでは分からなかったからな」
「だったら直接聞いちまえば良かったじゃねえか。それで追い払ってやれば平和だろ」
一分の隙もない正論だった。
返す言葉もなくて、俺は黙り込んだ。
すると、ゲンガーはなぜかニヤリと大きな口を更に横に広げた。
「それよりもよ。昨日のアレはなんなんだよ? あんなのに本当に惚れたか?」
「ちげえよ。ただなんか事情があるのかと思ったら可哀想でな」
「ンなことやってっからニンフィアにいいように使われるんだろうが」
「プレゼントも泥棒も変わらんだろ。そういうことにしてるんだ」
ゲンガーが呆れた顔で俺の目の前で宙返りをした。
あのゲンガーでさえも呆れさせるほどのおかしいことを俺は言っただろうか。
「まぁ好きにすりゃいいけどよ。そのうち痛い目見るぜ、兄貴」
「分かった分かった。お前はさっさと寝ろ」
「そうさせていただきますよっと」
捨て台詞らしきものを吐いて、ゲンガーは洞窟の壁の中に消えていった。
手元のマゴのみの皮を手早く剥きながら、サーナイトはきのみから目を離して前方を見やった。
少し先ではガブリアスが早く起きた子供達と遊んでいる。
ここ数日の朝は、毎回こうだ。
少し面倒くさそうに、しかしちゃんと子供達の相手をしてあげるガブリアスを見ている時間が、なんというか和むのだ。
……やっぱり、ガブくんは——
「また見とれてる。いい加減言えばいいのに」
後ろから突然掛けられる声。
反射的にサーナイトはガブリアスから目を逸らした。
「も、もう……いきなり声かけないでよ」
そういえば今日はニンフィアがいたのだった。
別に残念とかそういうのじゃない。じゃないけど……ほんの少し邪魔だと思ってしまったのが本当に申し訳ない。
「ごめんごめん。それで、いつまで隠しとくの?」
にやにや、とニンフィアが迫ってくる。
ニンフィアの性格的にわざとではないのは知っていたが、それでもちょっとムッとした。
「いつまでって……嫌味かしら」
「え、そんなに悩んでるって思ってなかった……ごめん」
急にしおらしくなるニンフィア。
「あ、別に悩んでるわけじゃないわよ。でも……本当に気づいてないのね」
「気づくって? サナの話ならもう気づいてるじゃん」
わかってはいたけれど、ニンフィアはちょっと鈍すぎるのではないだろうか。
「……まぁいいわ。それより朝ごはんの準備、手伝って!」
「いいけど、気づくって何!?」
「気にしない気にしない!」
別に、そのことで落ち込んだりはしない。
少なくとも普通以上に仲もいいし、それで十分満足だ。
ぴょん、と一回跳ねて、またきのみの下処理続ける。
朝だというのに元気いっぱいにわいわいとはしゃぎながら、子供達が各々ご飯を食べ始める。
そんな様子をサーナイトたちは少し遠くから見守っていた。
「ってかよ、いつ帰ってたんだよニンフィア」
「昨日の夜だよ?」
「そりゃ知らねえわ。俺は寝てたからな」
何気ない会話にもかかわらず、ガブリアスはいつもよりずっと表情が豊かだ。
キリキリと、胸が痛む。
「そんなことより、昨日は先送りにしちゃったし改めて考えましょう」
「俺は昨日の話聞いてねえからなんの話か分からねえんだが」
「えっと、簡単に言うとね——」
簡単に、と言いつつ少し長めに、ニンフィアは経緯を説明した。
「……そうか。また稼げるところ探さねえとな」
「本当にごめん。ミスしちゃって」
「ミスは私もよ。どっちにせよあそこではもう予定以上の収穫はあったしいいわよ」
「うん……」
ガブリアスは爪を顎に当てて、思案する素振りを見せる。
いっつも何も考えていにくせに、変に知的に見えるから不思議だ。
「カイスのみの量的に当分はこの周りで十分賄えるんじゃないか? その間にちょっとずつ調べてきのみが多いところを調べりゃいいだろ」
「カイスのみは非常用だし、あんまり使いたくないじゃん。早く探さなきゃ……」
「早く探すなら、私が探しに行った方が自分でテレポートできるし楽かしら」
「お前はバトル苦手だろうが。俺が護衛に行くにしても、ニンフィア一人で回せるのか?」
心臓がびくりと大きく跳ねて、頭の中には一瞬で「2人っきり」の文字が展開されて踊り狂う。
でも、よくよく考えたらこれはニンフィアの方を心配している発言だ。
舞い上がりそうになったテンションは、急下降して元の冷静さを取り戻す。
いけないいけない。そもそも、2匹が子供達の事を考えているのに自分だけ自分のことを考えていちゃダメだ。
「なんとか……ならないこともない。ちょっと大きい子たちには手伝ってもらうかもしれないけど」
「……なるべく避けたいよな。遊ばせてやりてえ」
「やっぱりこれまで通り私が頑張って探すよ。それでサナとガブが面倒見ててくれれば」
「お前が良いんならそれで良いけどよ……」
「そもそもサナもガブも面倒見るだけって話で来たんだから、これが当たり前じゃん」
「でもよ……」
心配にか顔を歪めるガブリアス。
その足元に、ご飯を食べていたはずの子供達が数匹ペタペタと歩いてきた。
「「「おかわりー!」」」
「おう、持ってくからあっち行って待ってろ」
ガブリアスに言われ、子供たちはきゃーきゃーはしゃぎながら戻っていく。
『一旦お開きね』『あぁ』と目線で会話して、ガブリアスが子供達のおかわりを取りに行って話は一旦流れてしまった。
ふと目線に反対側に向ければ、ニンフィアは俯いて何かを思案していた。
「ニンフィア、どうしたの?」
「ん、あぁ、なんでもない」
「きのみの話ならまだ少しくらい余裕はあるわ。すぐに決めなきゃいけないわけじゃないわよ?」
少し先回りして言ってみると、ニンフィアは力なく首を振る。
「いや……なんでか分からないけど、なんかやる気が出ないというか。体に力入らなくて」
「大丈夫なの?」
「多分。体の調子は悪くないよ」
「ならいいけど……」
そう答えつつも、やはり心配だ。
この前帰ってきたときはあんなに嬉しそうにしていたのに、様子がおかしいのだ。
……奥の手、使うしかないかしら。
サーナイトは1つ決心した。
サーナイト一族には、特技がある。
胸のこの突起を使うと、他のポケモンの感情を読み取ることができるのだ。
サーナイトの知り合いでこの事を知っているのは、多分ガブリアスだけ。
だから、結果的に心の中を盗み見るような真似になってしまうのだが……今回は仕方がない。
ニンフィアの後ろに回って、背中からぎゅーっとニンフィアを抱きしめる。
「なにー?」
「なんでも? いいじゃないちょっと抱きついたって」
甘えた声を出して、本来の目的をカモフラージュする。
「私じゃなくてガブに甘えればいいじゃん〜」
「で、できるわけないでしょう!?」
……と声を荒げてから、本来の目的を忘れかけている自分に気づいた。
気を取り直して、ニンフィアの心を読み取っていく——
「えっ……?」
思わず、声が出た。
「どうかした?」
「あ、ううん。なんでもないの」
なんとか声を取り繕うのが、精一杯だった。
だって、これって……私と——。
飯も食い終わってやることがなくなった俺は、なんとなく外をウロついていた。
体がだるくてたまらないのに、何故かずっと洞窟にいる気にはならなかったのだ。
だるい体を引きずるように、なんのあてもなく道を歩いていく。
「おう、久し振りだな」
不意に投げかけられた声は、とても聞き覚えがあるものだった。
「……おう、バンギか」
久し振り……だっただろうか。最後にあったのがいつかなんて覚えちゃいない。
下から、涼やかな声が投げかけられる。
「ちょっと、私もいるわよ」
睨みつけてもあまり怖くないグレイシアだった。
また夫婦で散歩でもしてるのか。
バンギは何か興味深いものを見つけたみたいに目を吊り上げた。
「やっといつものに戻したんだな。だがよ、ちょっとやりすぎじゃねえか?」
「なんの話だよ」
唐突すぎてさっぱり分からないのは、俺が悪いのだろうか。
「お前元々はそんなキャラだったろ。いつからか急にテンション高くなったけどよ」
「……そうだったか?」
とぼけてはみたが、これは俺が意識してやっていたことなのではっきりと分かる。
わざわざバンギと話すときだけテンションが高かったのは理由は単純で、バンギが喋らない分俺が喋らないと話がブツ切れになるからなのだが。
そういやそうだった、とは思いつつ、やはり今はテンションを上げる気にはならなかった。
「やっと戻ってくれたな。なんつーか、取り繕ってないお前の方が俺は楽でいいんだよ」
「…………そうか。分かった」
結局俺の気苦労だったのか。
安心したというよりは、肩透かしを食らったような気分だった。
その時、下から鋭い指摘が俺に突き刺さった。
「あなた、テンションが低い理由が別にあるでしょう? 高くしていないから、じゃなくて」
「いや、ねえよ。なんとなく今日はだるいだけだ」
「そんなことないわ。何か理由がなければ0より下に落ちるわけがないもの」
「いや、本当にねえんだがな……」
そんなに睨まれてもないものはない。
何故かなんて分かるなら、こっちが知りたいくらいだ。
グレイシアは俺に話が通じないとみたのか、バンギラスの脚を揺さぶり始めた。
バンギラスは「仕方ねえな……」とばかり頭をかきつつ俺に視線をやった。
「ないなら探してやる。最近あったこと全部教えろ」
「あー? めんどくせえな……」
そう言った瞬間の2匹の目つきが怖かったので、俺は素直に従うことにした。
話すことといえばやはりニンフィアの話だろうか。
俺は思い出せる限り経緯を2匹に話した。
話していくうちにどんどん思い出してきてしまって、話終わる頃には喋りすぎて頭がクラクラした。
「——こんなもんだな。聞いてくれてありがとよ」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょう!?」
横のバンギも驚くほどの声で、グレイシアが怒鳴る。
下から突き上げるようなその声は、とてもその小さな体から出たとは思えなかった。
「どういうことだ? さっぱり分からねえ」
「早くニンフィアを助けに行きなさいよ!」
「行くって言っても、こっちはそもそも場所も知らねえんだぞ」
「場所なんてポケモンたちに聞けば分かるわよ!」
「……ニンフィアは、自分の意思で出てったんだ。俺が勝手に助けを押し付けちゃダメだ」
くっ……、とグレイシアは歯を噛み合わせて俺を威嚇する。
しかし、その程度で揺らぐほど俺は何も考えていないわけではないのだ。
もちろん、考えた。
考えに考えて、ニンフィアの自由にしようと決めたのだ。
話を聞いてもらっておいて悪いが、今話を聞いただけに奴には分からないだろう。
「なぁ」
バンギが、いつもより少し低い声で俺に呼びかけた。
「なんだ」
「1つ聞くぞ。なんで最初から怪しいって思ってたのにお前は躊躇なく優しくしてるんだ?」
「そりゃ……助けを求めてる奴がいたら普通は助けるだろ」
「つまり今は助けを求めてない。だからお前はもう要らないはずだ。お前もさっさと忘れていいはずだろ」
「……そうだな」
「だったらなんでお前はあんなに細かくニンフィアのことを覚えてるんだ?」
「…………っ!?」
頭が激しく揺さぶられたような錯覚を覚えた。
自分が今まで立っていた固い固い地面から、地盤を突き破ってなにかが湧き出してくるような。
「そうよ。あなたの理論なら、ニンフィアはもういないのだから忘れるべきなのよ? ……あなたは、ニンフィアが心配なの」
「俺が、ニンフィアを、心配?」
不思議と、そのフレーズは俺の心にしっくり収まった。
まるでずっと前からそうだったみたいに。
俺の心の仮面が、ぺりぺりと少しずつ剥がされていく。
どうやら俺は、自分を騙していたらしい。
そう思った瞬間頭に浮かんだのは、ニンフィアの控えめな笑顔だった。
作られたものだと知った今でも、綺麗だと思える笑顔。
もうさっきまでの意味もわからず体がだるいと言い訳をしていた俺は存在しない。
今まで無視してきた分の心配が溢れ出てきて、焦りを感じて、気持ちがはやる。
「……俺は、なにを……?」
ただでさえ自分の心も分からなくて、戸惑った状態なのだ。
なにをすればいいのかなんて分かるはずもなかった。
バンギが頼もしい笑みを浮かべて、俺に教えた。
「追いかけろよ、死ぬ気で。追いかけてどうなる、とかどこにいるか分からない、とかつまんねえこと考えないで、必死で。案外なんとかなるぜ」
「ほら、早く行きなさいよ」
2匹の言葉に、俺はあえて返事はしなかった。
自信満々な2匹の笑顔を背中に受けて、俺は全力疾走を始めた。
「俺とお前の時と、同じだな」
「えぇ」
そんな2匹の会話が後ろから聞こえた。
乱れた息は不規則に音を立てて、吸うたびに体の内側が痛みを発する。
内側だけじゃない。
ボディパージで極限まで体を軽くしたはずなのに、それでもなお体がいつも以上に重たく感じている。
脚も背骨も疲労が溜まって、一刻も早く休めと強制するように鈍く痛みを発する。
しかし、俺は走るのをやめない。
もう残っているのは気力と気持ちだけ、それだけでひたすら地面を蹴り続ける。
体が発する痛みから意識を遠ざけるためだろうか、ふと考え事を始めた。
——そもそも俺はなんで最初の日にニンフィアを受け入れたんだ。助けてやるため……なんて建前だったのか? ……分からない。少なくとも俺は本気でそう思っていたのに。自分の心が自分に嘘をついたとでも言うのだろうか。
目を瞑った。
ニンフィアの行動や言葉が鮮明に目の裏に浮かび上がる。
そして、それを楽しかったと懐かしんでいる俺がいた。
この気持ちはなんなんだ。心配、なんて域をとっくに超えていることくらい俺にだって分かった。……だったら、正体は一体何なのだろうか。
脳裏に浮かんだのは、あの崖にぽつんと咲いている小さな花みたいな控えめな笑顔。
その口元が動いて、
『……す、好き、です』
限界に近い走りのせいで既に暴れ狂っていた心臓が、一際大きく、それこそ止まるんじゃないかと思うくらい大きく跳ねた。
それと同時に、1つ気づいたことがあった。
俺は、例え嘘でも、ニンフィアが好きだと言ってくれたことが嬉しかったのだ。
つまり、これは。この気持ちは。
——俺は、ニンフィアが、好き……なのか?
その気持ちはまだ俺には未知のもので、バンギや他の周りのポケモンたちの話の中にしか存在しないような気さえしていたものだ。
分からない。俺は今、生まれて初めて自分のことが全く理解できなかった。
理解なんてそんなのどうでもいい、と言うみたいに、頭の中でニンフィアがまた微笑んだ。
……あの笑顔が、作られた嘘の塊だなんてとても思えない。
俺は、走るスピードを更にあげた。
——本当に、なんなんだろう。
一緒に遊ぶ子供達には悟られないように、そっと心の中で呟くのはこれで何回目だろうか。
昨日の夜からずっと続く、この物足りなさの正体が気になって仕方がない。
前の自分だったら子供達と遊んでいれば満たされていたはずなのに。
変化させる要因といっても思いつくのは——
(あのボスゴドラ……)
その名前を心の中で唱えるだけで、ふわりと一瞬体が温かくなる。
最後の最後まで、騙されていたと知ってなお優しかった、あのお人好し。
もしかしたら、皮肉にも嘘ではなく本当に好きになっていたりして……。
(もう会うこともないし。さっさと忘れないと)
「にんふぃあさん、だいじょーぶ?」
下からの可愛らしい声で、ニンフィアは我に返っていた。
一緒に遊んでいたオタチの子がとてとて歩いてきてこちらを覗き込んでいた。
「あ、大丈夫だよ! 心配させちゃってごめんね」
お詫びにリボンで頭を撫でてあげると、オタチは「えへ〜」と顔をふやけさせる。
ちょうどその時、サーナイトが子供達を呼ぶ声がした。
夕食の合図だ。
そういえば、もう森の中は少しずつ暗くなり始めている。
まるで時間を忘れて遊ぶ子供みたいだ。
朝から理由も分からず少し憂鬱なニンフィアだったが、それでも子供たちと遊んでいる時間は楽しいものだったからかもしれない。
オタチと一緒に戻ろうと一歩足を出す。
しかし、頭をこつんとつついてニンフィアを制止するポケモンがいた。
「……おい。ちょっと残ってくれねえか」
「え、ガブがいきなりどうしたの?」
「俺なのが問題なのか? ちょっと話そうと思ってな」
ガブリアスの表情は、一分の隙もない緊張したものだった。
「わかった」
「にんふぃあさんどうしたの?」と聞いてくるオタチを、「先に行ってて」とサーナイトのところへ送り、ニンフィアはガブに従って森の奥へ入った。
「ねぇ、なんでわざわざ奥に来たの?」
「……あんまり聞かれたくねえんだよ」
渋面を作るガブは、いつもと違って目を合わせてくれない。
回り込んで目を合わせようとしても、執拗に避けてくる。
「おい、なんなんだよ!」
更に続けていたら、小声で怒鳴られた。
「む……。別に何も。それで、なんの話するの?」
「いや、お前今日はずっと元気ねえだろ? 話くらい聞いてやろうかと」
……なるべくバレないようにしてたのに、やっぱり心配させちゃってたんだ。
ありがたさと申し訳なさが同時にニンフィアに襲いかかる。
「……それなら、大丈夫。もう解決したよ」
多分。もうさっき整理はつけたはずだ。
「その顔は、大丈夫なやつの顔じゃねえ」
今どんな自分は顔をしてしまっていたんだろうか。
口角をちょいと上げて、ニンフィアは微笑んだ。
「そんな無理やりの笑顔なんて俺は嫌いだ」
……ダメかぁ。
作った笑顔が勝手に元に戻った。
目が少し歪んで、仏頂面。
「……なんで今日はそんなにしつこいの? 嫌じゃないけど……ガブらしくないよ」
「ンなことは俺も分かってる。馬鹿みたいにお前を心配してるんだからな」
「……ありがと」
不覚にも、ちょっと泣きそうになった。
自分を心配してくれるポケモンがいるって、幸せなんだなぁ。
詰まりかけた胸で息を吸い、出た言葉は一言で精一杯だった。
「それだけじゃねえ」
……ん?
「……お前にはそんなしけたツラしてねえで笑ってほしいんだよ」
「……うん。わかった」
今度こそ、自然に笑顔が漏れ出た。
「そうだ。……それが、俺の好きな笑顔」
「……え?」
「……笑顔じゃなくても、好きだ」
「あ、あの……?」
「俺は、お前が……好きだ」
「…………!?」
10万ボルト、いや雷を受けたような衝撃だった。
「その……わ、私?」
「あぁ」
「……なんで、私?」
正直に、分からなかったのだ。
ガブは何かを思い出しているのか、一瞬少し遠い目をした。
「お前が俺とサナをここに誘ったときのこと、覚えてるか?」
「もちろん。当たり前じゃん」
「あんときお前は、俺たちは子供の面倒を見るだけ、外に行ったりは全部お前がでやる……って言ってたよな」
「うん、言ったよ」
「何だかんだ言って結局俺たちも外で手伝うことになるんだろ、って俺は思ってたんだがよ。……お前、本当に1人だけでやってるじゃねえか」
「そりゃ、約束だもん」
「優しいやつだな、って思った。でもそれが危なっかしかったんだよ。そんで、気を揉んでたら……いつのまにか、な」
「……そっか」
嬉しいものは、やっぱり嬉しかった。
好きって言われるってこういうことなんだ、と自分が使った手口の受け側を初めて実感した。
……でも。
「なぁ。お前は、どうなんだ……?」
「…………」
ガブリアスが詰め寄ってくる。
じりじりと、ニンフィアは後退を余儀なくされる。
「黙ってても、分からねえんだよ。……どっちでもいい。言ってくれ」
どん、と。
後ずさりをしていたら、後ろの木にぶつかってしまった。
もうこれで後ろには避けられない。
「……お願いだ。答えてくれ」
ニンフィアを覆うように、まるで獲物を逃すまいとしているみたいに、ガブリアスが腕を大きく広げる。
……怖い。
それに、ニンフィアには答えることなんてできなかった。
ガブリアスはもちろん大切な仲間だ。繋がりを切りたくなんてない。
でも、ニンフィアがガブリアスを取ってしまったら、サーナイトはどうなるというのか。
あんなにずっと想い続けているのに。
……例えポケモン関係がどうでも良くなったとしても、やっぱりニンフィアは答えられない。
少なくとも、今のニンフィアでは、無理なのだ。
まだ、ガブのことを好きにはなれない。
まだ、忘れられていない。
「なぁ……!」
本人にはそのつもりはないのだろうが、ニンフィアは凄まれているように錯覚した。
怖い……!
追い詰められ狩られるのを待つ獲物みたいに、ニンフィアは顔を伏せた。
しかし、その牙は襲いかかってこなかった。
ドスン! と重苦しい音が目の前で鳴った。
ガブリアスが真横に吹っ飛んでいく。
ニンフィアは伏せた顔を、一気に上げた。
代わりに、そこにいたのは——
「……やっと、見つけた」
もう今にも地面に膝をつきそうになりながら、俺は走っていた。
山を丸々一つ休むことなく超えて辿り着いた、自分の住むところから二つ隣の森。
聞いて回った情報が正しければ、ここのどこかにニンフィアがいる。
どこだ……どこだ……!
小さなポケモンたちが俺を見て逃げていくのが見えるが、そんなのを気にしている暇はなかった。
太く這った木の根を飛び越え、着地した瞬間だった。
視界の端で、ちらりと何かが揺れたのを俺は見逃さなかった。
視界の正面に揺れた場所を捉えて、その正体を確認する。
——間違いない。あれは、ニンフィアのリボンだ。
そして、ニンフィアの隣に何やら大きなポケモンがいるのも影で確認できた。
回り込んで、ニンフィアの姿を確認する。
「…………っ!!」
思わず俺は息を張り詰めた。
さっき影で見た大きなポケモンは、一緒にいたわけではなかったのだ。
なぜなら、その獲物に飢えたようにギラギラと輝く爪を持つデカイやつは、明らかにニンフィアを逃すまいと上から覆い被さっているような格好だったから。
恐喝か何かだろうか、そんなことを考えるよりも前に、体が勝手に動いていた。
ほぼない余力を振り絞って助走をつけて、ニンフィアに迫るデカイやつに全力の体当たりをかました。
見た目に反して案外軽かったのか、それとも金属を纏っている俺が重いのか、そいつは勢いよく横へ吹っ飛んでいく。
入れ替わるように俺はニンフィアの前に躍り出た。
「……やっと、見つけた」
何か言おうと思って辛うじて出たのは、疲れ切って掠れた声だった。
ニンフィアは大きな瞳をまん丸に開いて俺を見つめ返す。
しばらく放心したようにこちらを見て、それから何かに気づいたようにハッと瞳を揺らす。
何をするかと思えば、何故かさっきデカイのが飛んで行った方向へと駆けていく。
倒れ伏しているデカイのをリボンで揺する。
「ガブ、大丈夫!?」
「……あぁ。痛えけどな。それより、お前は逃げた方がいいんじゃないのか?」
……あれ? ニンフィアの敵じゃなかったのか?
今度は俺が呆然とする番だった。
ボケーっと突っ立っているうちに、デカイのに助言されたニンフィアはそれの通りに逃げ出してしまう。
「なっ!? ちょっ、待ってくれ!」
慌てて俺も追いかけた。
それを見たニンフィアは、更にスピードアップする。
疲弊しきった俺では、とても追いつけそうになかった。
「おい、待ってくれ!」
返事はない。
俺は叫ぶのをやめない。
「なぁ! なんで俺がわざわざ知らん場所を聞いてまで追いかけてきたと思う!?」
「……恨みを晴らしに、とかでしょう」
ぼそり、と呟く声を、俺は逃しはしない。
「違う! …………お前がいないと、寂しかったんだよ!! 笑っちまうよな、10日もない時間一緒にいただけでよ!」
びくり、とニンフィアの体が跳ね、ニンフィアのスピードが落ちる。
俺との距離が、更に縮まる。
「気づいたんだよ!」
逃げおおせるためか、ニンフィアが草むらへと飛び込んだ。
その草むらを思いっきり薙ぎ払うと、すぐ先にニンフィアがいた。
俺は、ありったけの力と気持ちを乗せて、その背中に叫んだ。
「俺は! ニンフィアが!
好きになってる……っ!!」
ニンフィアが大きくバランスを崩した。
すぐそばまで追いついていた俺は、地面に滑り込むようにしてニンフィアを抱きかかえる。
転ぶことを予期してぎゅっと固く閉じられていた目が、至近距離で開く。
「……あ」
瞳が俺を捉えて、ニンフィアの頰に桃色の火が灯る。
怒りの色だろうか。多分、そうだろう。
ニンフィアからしてみれば、単なる獲物だった俺に執拗に追いかけられているのだから。
「……無理に答えなくていい」
どんな罵倒が飛んでこようと、受け入れる覚悟は出来ていた。
目を瞑って、受け止める準備をする。
しかし。
「……ばか」
飛んできたのは、儚げな濡れた声。
「まだ、忘れられてなかったのに。会っちゃったら、もう——」
声を殺してニンフィアは泣き始めてしまう。
ポロポロと大粒の涙が次々紅く染まる頰を伝ってこぼれ落ちていく。
「ど、どうした……?」
「分かんないよ……なんで、こんなに……嬉しいんだろう……」
「!! ……それ、って」
「私も、私も……」
「……す、好き、です」
それは、出会った時の言葉と全く同じ。
しかし、あの時とは明らかに違うと俺は断言ができた。
「……本当、か?」
「うん……一目惚れじゃないけど」
思わず俺は腕に抱いたままだったニンフィアをそのまま抱きしめた。
ニンフィアもそのリボンを俺の体にぐるりと回した。
そのまま顔を俺に押し付けて泣きじゃくる。
……ただ抱き合っているだけなのに、とても温かい。
今度こそ、心の底から温かい。
溶けてしまいそうな、甘い温かさだ。
ニンフィアを抱きしめながら、ふと俺は聞かなければならないことを思い出した。
「なぁ、聞いていいか?」
「うん。なんでも聞いて」
ニンフィアが話す体制になるため離れていく。
腕が少し寂しがった。
「あのときは教えてくれなかったけどよ、結局なんできのみなんか盗んでたんだ?」
「短く言うと、食糧がいくらあっても足りなかったの」
「長く言うとどうなるか、聞いてもいいか?」
流石にそんな説明だけでは、もの足りない。
掘り下げるように言ってみると、ニンフィアは渋面を作った。
「その、私だけのじゃない弱み握らせることになるから……」
「いや、無理にはいいんだ。……いつかは教えて欲しいがな」
ニンフィアはしばらく俯けて視線を泳がせていた。
そして、決意したように俺を見上げる。
「……私の話聞いたら、私のこと手伝ってくれる? 私の仲間に、なってくれる?」
「当たり前だろ。じゃなきゃなんでここまで来たんだよ」
「本当に? なんの話かもしてないのに……?」
「あぁ」
もちろん即答だ。
ここまで来てしまったんだから、もうニンフィアと一緒に流れる以外に道はない。
俺の即答が功を奏したのだろうか、ニンフィアは少し表情を和らげて話し始めた。
「分かった。えっと、私が人間に捨てられて、って話はしたよね?」
「あぁ。聞いたな」
「そうやって捨てられた子、ありふれてるわけじゃないけどすごく珍しいってわけでもないの。だから、私みたいな思いをしないように……って、そういう子たちを集めてたの。そこまでは良かったんだけど、範囲をどんどん広げてったらポケモンの数も増えちゃって、みんなの分の食べ物を用意するのが大変で…………最終手段であんなことをしてたの。ごめんなさい」
やっぱりニンフィアは根っから悪かったわけではなかった。
あの悪い姿は優しさがあったからこその仮面だったのだ。
あの笑顔が嘘ではなかったと証明できた。それだけで、嬉しかった。
「……そんなこったろうと思ってたぜ。素直に言ってくれてれば俺だって協力できたのに」
「ほんとに? ……うぅ、ごめんなさい」
「いいんだよ。俺は分かってあげられたじゃねえか」
しょんぼりするニンフィアの頭を優しく撫でる。
ニンフィアはゆっくり顔を上げて、頭を傾けて俺に笑いかけた。
「なぁ、それはそうとよ」
「ん、なに?」
「あの後ろの木に隠れてるのはお前の仲間でいいんだよな?」
「……え!?」
ニンフィアが勢いよく振り向いた。
その目線の先にいるのは、木の陰に隠れる2匹のポケモンだった。
片方は俺も一回だけ見たことがある。ニンフィアの盗みがバレた時に来たポケモンだ。
もう片方は、さっき俺が吹っ飛ばしたデカイやつ。ニンフィアの仲間だとしたら申し訳ないことをしたとは思う。
ニンフィアは転びそうになりながら全力ダッシュで2匹のところへ駆けていった。
「どこから聞いてたの!?」
泣き叫ぶ勢いでニンフィアが聞いた。
真っ赤にした耳に不覚にも可愛らしいと感じる。
「あー、おう、アレだ」
「その、全部……聞いてたわ」
ニンフィアが耳をぴょこんと立て、それからしなしなとへたり込んだ。
「うぅー……恥ずかしいなぁ」
「そうね。聞いてて私も恥ずかしかったもの」
「もう! うるさいうるさい!」
仲間であることは間違いなさそうだ。
俺も少し近づいてみた。
お互い目が合うが、咄嗟に話すことが思いつかない。
自己紹介でもすればいいのだろうか?
勝手に気まずい気分になりかけるが、そんな俺と2匹の間にニンフィアが飛び出てきた。
「紹介! しないとね。どっちから?」
目線を右往左往させるニンフィア。
2匹のうち、洞窟で会った方のポケモンが口を開いた。
「これから手伝ってもらうんだもの、私たちからにしましょ。私はサーナイトよ。テレポートが使えるから、ニンフィアの運搬係もしてるわよ。よろしく頼むわね」
あのとき突然現れたのはテレポートを使っていたのか。
1人納得した。
「私をモノみたいに言わないでよ!」
怒るニンフィアも可愛いからよし。
次は、デカイやつ。
「俺はガブリアス。さっきのタックル、効いたぜ」
全力の攻撃をされたというのに、このキリッと爽やかな笑顔は俺には繰り出せそうもない。
「あー、その件は本当にすまない」
「アレはいいんだ。むしろ目が覚めたぜ。あのままじゃ絶対にいい方向には行かなかったしな」
何がいい方向なのかは、話していた内容を知らない俺には分からん話だが。
とりあえず、許してもらえたらしい。
実は最初に2匹が見ていることに気づいた時から、このガブリアスがさっきのタックルをどう思っているかが少し怖かったのだ。
むしろ感謝されて、肩透かしされたような気分だ。
「そう言ってくれると助かるな」
「おう。久しぶりに鍛えられそうな相手が出来て嬉しいぜ」
「そりゃいいな。俺もバトルは好きだ」
特に初対面だとあまり話すのは得意ではない俺だが、こいつとは案外話せている。
ガブリアスのさっぱりしている口調せいだろうか。
ガブリアスもサーナイトも、ニンフィアに協力しているだけあっていいやつらなのだろう。
喋り終わると、ニンフィアがちらりとこちらを見た。
俺の番か。
っつっても何か話すことあったか……?
「あーっと……俺は、ボスゴドラだ。ここから2つ先の山を全部管理してるから、食いモンなんかは力になれると思う」
とりあえず話せそうなことを話して見たのだが、2匹、特にサーナイトの食いつきようはもはや異常だった。
「それ本当に!? 嘘じゃないのよね!?」
「こんな場面で嘘はつかねえよ。それなりに顔は広いぜ」
「本当に助かるわ……」
こういうのを感極まった、と言うのだろうか。
サーナイトは力が抜けたみたいに地面にへたり込んだ。
ガブリアスが膝をついてサーナイトの肩を抱く。
「そんなすごかったなんて知らなかったや。……本当に、いてくれて助かる」
ニンフィアが俺の脚に身体をくっつけてきた。
「おう。お前のためなら顔でもなんでも使ってやるよ」
「……ありがと」
子供達を待たせているらしい住処に帰る途中のこと。
ニンフィアが、「ねぇ」と話しかけてきた。
その目はどこか遠くを見ているような、焦点の分からない目。
「あのさ、子供達のお世話、元々私1人でやってたんだ」
「そうなのか? 大変だったな」
「うん。すごい大変だった。それでね、手伝ってくれるポケモンを探そうと思って近くに住んでるポケモンたちに話してみてさ。それでサーナイトとガブリアスが来てくれたんだけど」
「他の奴らは来てくれなかったんだな」
「うん……ポケモンの数が多いから仕方ないんだけど、私たちがきのみを多く持ってくからってあんまりよく思われてなくて。その頃は、私も独りだった」
「……本当に、大変なんだな」
たまたまバトルが得意だったせいで、山を管理してのうのうと生きていた俺とは比べものにもならない生き方を、ニンフィアはしてきたのだ。
だから、俺にはニンフィアの気持ちは本当には理解できないのだと思う。
でも。
「なんか、もう4匹まで増えてさ。不思議な感じ。もう独りじゃないんだなぁって」
「当然だろ。俺は絶対にお前のとこにいてやる」
その悲しい気持ちを、それっきりにしてやることは俺にもできる。
だから、俺はもう離れない。離さない。
俺を騙しておきながら自分はなんの危機感もなくきのみを取ろうとして罠にかかったところからしても、ドジなやつから目を離してはいけない。
「……ありがと」
なんとなく、だが。
その笑顔には、一つじゃない感情がごちゃ混ぜに詰まっている気がした。
俺は、この隠しきれない優しさを帯びた笑顔が好きなのだ。
子供たちが待っている住処に俺が入った途端、住処は阿鼻叫喚の大騒ぎとなった。
イトマルの子を散らすみたいに一斉に入り口から離れていく子供たち。
「待ってみんな!」
ニンフィアが叫んだ。
よく通る澄んだ声に、場が一気に静まり返る。
それほどにニンフィアは信用されているのだろう。
「このポケモンは、ボスゴドラさんっていうの。私たちの新しい仲間だよ!」
子供たちが一斉に俺を凝視した。
それから、ビクビクと震えながら、少しずつではあるが俺に近づいてくる。
サーナイトがぱちんと一回手を叩いた。
「ほら、みんな! ボスゴドラさんに挨拶しましょ! せーの!」
「「「よろしくお願いします!!!」」」
子供たちは声を合わせて、ゆっくりと間延びした挨拶をしてくれた。
中にはぺこりとお辞儀をしてくれる子もいて、ちゃんと育っているんだなと感心したり。
「お前ら、こんなやつ俺より怖くねえだろ? 仲良くしてやれよ」
ガブリアスがそう言うと、子供たちは素直に俺とガブリアスの間で視線を往復させる。
俺に近づく速度が早まるが、それでも俺の5歩分より近くに来てくれる子はいなかった。
「挨拶も終わったし、みんなお腹減ったわよね!」
再び部屋が、今度は楽しげな声で沸き返る。
子供達はきちんと一列にサーナイトの前に並び始めた。
楽しそうに話す子供達を見て、俺はそこはかとない不安を感じるのだった。
「……大丈夫か? これ」
ニンフィアがリボンを長く伸ばして、俺の顔に触れた。
「きっと仲良くなれるよ」
「……そうだな」
しかし、元から初対面のポケモンに怖がられることが多かった経験から、やはりどうしても不安だ。
「なぁ、聞いてもいいか?」
「ん、なに?」
「俺って、怖いか?」
「……ううん、かっこいい」
――――Fin.
◇ ◇ ◇
今日の仕事が全て終わって、私は自分の部屋に戻っていた。
背中のあたりにのしかかった疲れを一刻も早く取りたい。
しかし、自分の部屋の一つ手前で私は足を止めた。
いつもは聞こえてくる、ガブくんの寝息が今は聞こえない。
代わりに聞こえるのは、数十秒に一回ペースの深い深いため息。
さっきの作業中もずっと考えて、結局やらないとボツにしたあの案をやるべきだろうか。
扉へ手を伸ばして、やっぱり引っ込めて。
そんなことを3回も繰り返して、私はやっと意を決した。
こつん、こつん、こつん。
扉を丁寧に3回叩く。
「入っていいー?」
帰ってきたのは、無言の返事。
それを許可と取って、私は中へ入った。
ガブくんは壁に寄りかかって、くり抜いただけのの窓とも言えない穴から外を見ていた。
その澄んで黄色かった目は、凶器のように赤く染まっている。
「……サナ」
こちらをロックオンする瞳は、狂ったように雷撃をこちらへと飛ばしてくるようだった。
鬼のような形相だけど、でも私はその中にある気持ちを分かっている。
「いいよ。何も言わなくて」
大きかったはずのガブくんの体は、何故か少し小さく見えた。
私は、その丸まった背中を後ろから優しく抱きしめる。
ザラリ、とガブくんの肌が私の肌に擦れる。
「……それ、痛くないか?」
「ううん。0ってわけじゃないけど、ガブくんに比べたら0みたいなものじゃない」
「…………ありがとう」
少ししょげ気味のガブくんは、いつもと違ってとても可愛い。
頰が少し赤くなっているのも、まるで純粋な女の子みたいだ。
……なんて言っている場合ではない。
「ね、ちょっと外に出ない?」
「どこに行くんだ……?」
「ふふ、秘密。付いてきてくれる?」
「別に、いいけどよ」
自分の疲れなんて、もう忘れていた。
ガブくんの腕を引っ張って立ち上がる。
目指すはあの場所。
私たちの、思い出の。
少し遠いけれど、今の私には距離なんて関係ない。
ガブくんをチラリと1回見て、それから私はテレポートを発動した。
たどり着いた先は、私たちが住んでいる山の奥深く。
その、広場のように少しだけ開けた空間。
ガブくんは閉じていた目を開くなり、驚いた様子を見せた。
「ここってよ……」
「うん。私たちが会った場所」
「……なんで、ここに?」
「なんとなく、懐かしくなって」
本当は、慰めてあげるにはどこがいいかな、とか、なるべくニンフィアが関係ないところがいいよね、とか色々考えた。
でも、それを言う必要はない。
「……確かに、懐かしいかもな」
ガブくんが広場のちょうど真ん中にある切り株に座った。
隣に私も座ろうとして気づく。
ガブくんが座った時点で、スペースがあまり残っていないのだ。
「切り株、ちっちゃくなったわね」
「分かってるだろうが、俺たちが大きくなったんだからな? ほらよ」
ガブくんが少し横にずれて、私に場所を取ってくれる。
密着なんてしたら私がもたないから、少し間を空けて座ろうとして。
「——あ、きゃっ!」
バランスを崩して落ちそうになった。
思わず反対側へ体重を傾ける。
転ばないようにとっさにしがみつく。
「何やってんだよ」
ガブくんが呆れたようにこっちを見て、私はやっと気づいた。
密着しないように間を空けたのに、結果的にしがみついてしまっているのだ。
「あ、あ、あ、えっと……」
うぅ、アメタマみたいになってる……!
そう思いつつも、焦って言葉が出てこない。
「別に構わねえよ。狭いんだしよ」
ガブくんは素っ気なく言って、上空を見る。
「うん……」
しばらく葛藤したのち、こうなったらヤケだ、と全身をぴったりくっつける。
夜の冷たい外気が、舌を巻いて私の周りから逃げ出していく。
そして、木々のドームの中で円形に空いた穴から見える月を眺めた。
「綺麗、だよね」
「そうだな」
お前の方が、なんて言うわけないか。
ついつい考えてしまったことを追い出すために、別のことを考える。
「ね、始めて会った時ってどうだっけ」
「どうだったか……いや、割と覚えてるな。夜じゃなくて夕焼けだっただろ」
「そうそう——」
2人して空を見上げながら、遠い目をする。
あんときゃ、確か俺がバトルが好きでやたらめったらバトルしまくってたんだったよな。
そうそう。竜星群! って言いながら竜の怒り出してたわよね。
うっせ。子供対子供ならあれは最強だったじゃねえか。
フカマル『りゅーせーぐん! りゅーせーぐーーん!!』
フシデ『ぎゃあっ!』
ジャラコ『うぐっ!』
エレキッド『きゃあっ!』
フカマル『はっはっはー! おれがいちばんつよいんだぞ!』
ヒトツキ『うぅ……だれもかてないや』
切り株の上で踏ん反り返ってたガブくんを私が木の陰から見ててさ。
ラルトス『…………』
それを見つけた俺が勝手にバトルしかけたんだよな。
フカマル『あ、おまえ、まだたたかってないだろ! くらえ、りゅーせーぐん!』
ラルトス『い、いやあっ!』
それでガブくん竜の怒り打ったけど——
お前はフェアリータイプだからな。全く効かなくて驚いたのは覚えてる。
ラルトス『あ、あれ……?』
フカマル『えええええっ!? なんでおれのりゅーせーぐんがきかないんだよ! なんかズルしたな!?』
ラルトス『えぇっ、し、してないよう……』
フカマル『うるさいうるさい! おまえなんかこうだ!』
んで怒って俺がとっしんしたんだったか?
ラルトス『いたいっ! うぅ、うえぇ……』
うん。結構痛かった思い出あるよ。
痛え痛え、分かったから今の俺をつねるんじゃねえ。
ふふ、ごめんごめん。それで私が泣き出したんだよね。
エレキッド『あー! フカマルが泣かせたー!』
ジャラコ『いーけないんだーいけないんだー!』
それ懐かしいな。子供って絶対それ言うよな。
あれなんでなんだろうね。ガブくんはそれに怒って他の子を追いかけ回すから私しばらく放置だし。
最後ちゃんと起こしてやっただろ。そもそもなんでそれまでずっと泣いたんだっつの。
フカマル『ちぇ、あいつらどっかいきやがった』
ラルトス『うえぇ……っく……』
フカマル『おまえ、まだ泣いてたのかよ』
ラルトス『だ、だってぇ……』
フカマル『まったく……』
ラルトス『あ、ありがと』
雑に突進してきた割に、起こしてくれた時は優しかったよね。
そうだったか? そこまで覚えてねえよ。
私は覚えてるわよ。くっきりとね。
フカマル『……いきなりこうげきして、ごめん』
ラルトス『ううん、いいよ』
フカマル『……っ』
あの時ガブくんすぐどっか行っちゃったよね。
それはその……なんだ。もう夕方だったしな。うん。
それからここで私たち遊び始めたのよね。
そうだったか? あんま覚えてねえな。
私は覚えてるわよ! だって——
フカマル『おまえはよわいからとっくんだ!』
ラルトス『ふぇぇ……もう走れない……』
フカマル『なきごと? いうな! まじめにやれ!』
ラルトス『うぅ……』
——延々私に走らせてたじゃない! 私がやめたら突進で追いかけてきて!
そうだったか? そりゃそんときゃ悪かったな。すまんすまん。
全然心もこもってないわね。ほんとにひどかったのに。
ラルトス『チャームボイス!』
フカマル『ぐ、ぐぁぁ……! とっしん!』
ラルトス「きゃあっ!」
あんな突進受けたら倒れるわよ、って時でも、
フカマル『たて! こんじょー? だせ!』
とか言ってたじゃない。
当時の俺は熱かったんだな。
ラルトス『でもぉ……いたいもん……』
フカマル『うるさいうるさい! とっしん!』
ラルトス『きゃあああっ!』
おい、俺そんなひどかったか?
もっとひどかった時もあったわよ。
…………。
でも、その割に優しいときもあったじゃない。
フカマル『きのみ。たべるか?』
ラルトス『マゴのみだ! ありがとう!』
フカマル『たまたまあったからもってきてやっただけだからな!』
ラルトス『うん! でも、ありがと!』
フカマル『……っ』
だいたいガブくんが勝手に走ってっちゃって1日お別れなのよね。なんで逃げるのよ?
ラルトス『あ、待ってよー!』
フカマル『またねーよーだ!』
……そりゃまぁ、色々あったんだ。
そうなの? 言いたくないなら、無理に聞かないけど。
ガバイト『おれ、きのみの大食いならだれにも負けねえぜ!』
キルリア『もう、いっぱい口に入れたらおげひんよ』
ガバイト『ううはいううはい!』
流石に一回進化すると無理にバトルしたりもなくなったわよね。
進化してからってーと……アレだったがな。
あぁ……アレだったわね。
ジャランゴ『やーい、♂のくせに♀と仲良くしてやんのー!』
ホイーガ『カップルカップルー!』
中間進化期。どいつもこいつも無駄にこういうこと言いたがるんだよな。
2回進化するポケモンだけがある時期なんだっけ? めんどくさいわよね。
ガバイト『うるせえ! ちげえよ! お前なんか!』
キルリア『きゃっ、うぅ……』
突然……でもないか。私を突き飛ばしてさ。
仕方なかったんだよ。あとでちゃんと謝ってただろ?
ガバイト『やっといなくなったか』
キルリア『ガバイトくん……』
ガバイト『……ごめん』
キルリア『ううん、いいよ。仕方ないのは分かってるから』
急にお前が俺を後ろから抱きしめてさ。……あん時の俺にゃありがたかったぜ。
え、私そんなことしてたの……!?
何言ってんだお前。さっきもやってたじゃねえか。
それはその……忘れてよ!
ガバイト『……おれの肌、いてえだろ』
キルリア『ううん。全然いたくない』
ガバイト『……そうかよ』
さっきもそうだが、ありがとよ。
もう、何照れてるのよ。目なんか逸らして。
あぁん!?
そういやお前、テレポート覚えたのが嬉しくて俺をひたすら連れ回してた時あったよな。
あったわね……楽しかったわよ。
連れ回された俺は楽しくなかったがな。
キルリア『ねぇねぇ! 私、新しく技を覚えたの!』
ガバイト『あー? 突然なんだよ』
キルリア『えいっ!』
ガバイト『うああああっ!?』
何かと思ったら突然知りもしない花畑に連れてかれるんだから驚くわな。
あ、あの時は本当に嬉しかったのよ。テレポート最初に見せたのはガブくんだったんだから、感謝してくれてもいいのよ?
誰がするか。
キルリア『きれいでしょ! 見せたかったんだー』
ガバイト『別に俺は興味ねぇ。それより! さっきのなんなんだ!?』
キルリア『もう、せっかくガバイトくんに見せてあげようと思って頑張って練習したのに。これはテレポートだよ』
ガバイト『そ、そうか……』
キルリア『ね、わたしすごい? すごい!?』
ガバイト『そうだな。すごいな』
キルリア『適当に言わないでよ! もう……本当にガバイトくんに見せたかったのに……』
ガバイト『おい、そんなことで泣くなって!』
キルリア『……別に、泣いてないもん。ガバイトくんなんか知らない!』
急にお前が走ってくから俺にゃ何が何だかさっぱりだったんだが。
え、逃げてる私を追いかけて腕掴んだのは何も分かってなくてやってたの!?
キルリア『あ……』
ガバイト『待ってくれ! ……悪かったよ。本当は、ちょっとはきれいだと思ってた』
キルリア『ほんと?』
ガバイト『あぁ』
キルリア『ほんとのほんと?』
ガバイト『あぁ!』
キルリア『……ふふ、嬉しい』
古い話もほどほどに、私たちは現在に戻ってきた。
昔の話が現実逃避にはなったのだろうか、ガブくんもさっきよりは元気を取り戻している気がする。
「花畑の時もそうだし、今だってそうだけど、ガブくんは美的センスないわよね」
「うっせ。そういうのはお前に任せて俺はバトルだけしてりゃいいんだよ」
どくり、と胸が深く大きく疼いた。
だって、その言葉は、私には……夫婦のそれのようにしか聞こえなかった。
「えっ……それって…………?」
「あ? どうした?」
……やっぱり、違うわよね。
無いとわかっていたとはいえ、切望する分だけ落胆は大きい。
「……ううん、なんでも。なんでも——」
——ない。
あとたった2文字なのに。
そのたった2文字を、頭が、喉が、拒否をする。
「……ガブくんは、ずるいよね」
「何がだよ」
「これだけ長く一緒にいるのに。なんで分かってもくれないのよ……」
「何をだよ」
そりゃ何を喋ってるかなんて分かるわけないよね、と頭の隅で考えた。
でも、口は止まらない。
「それどころか乗り換えまで……私だって応援してたけど、本当なら——」
「だから、さっきからなんの話か俺にはさっぱり分かんねえんだよ!」
真横で怒鳴られて、私はガブくんを見やる。
「なんの話してるか、知りたい? 聞いてくれる?」
「あぁ」
私はガブくんの腕をひっつかんで、強引に引っ張った。
「なら、立ってよ」
ガブくんは素直に立ち上がってくれた。
ちょうど真正面で相対する形になる。
少し高い位置にあるガブくんの顔を、半ば睨みつけるように見つめる。
ついに、この時がきたのだ。
初めて認識してから、もう数えるのもやめたくらいの時間が経って、やっと。
幾度も幾度も想像したし、妄想もした。
でも、実際にそのシーンになってみると、頭が真っ白になって全く思い出せない。
自分の心からのアドリブで、伝えなければならないのだ。
言い出すのを躊躇してただ見つめていただけの時間の中で、意外にもガブくんは私が話し出すのを急かしもせずに待っていてくれた。
何を言い出すのか、純粋に分からなそうにしているその目をもう一度見つめる。
目を閉じて、深呼吸。心の準備は整った。
「あのさ。今こんな状況で言うのは卑怯かもしれないけどさ——」
こんな状況、とはガブくんがニンフィアに振られた直後のこと。
そう、私は卑怯者だ。
恐らく傷ついているであろうガブくんの心につけ入って、こんなことを言うんだから。
……でも、どんな手を使ってでも、私は一歩前に進みたかった。
まずは足を一歩前に出して、距離を詰めて。
もう一度、ガブくんを見上げた。
「——私、ずっと……ガブくんが好きだった。今まで我慢してたけど、もう無理なの……!」
あぁ、言ってしまった。
どんな返事が返ってくるのだろうか。
報われない返事だったら、どうしよう。
……怖い。
ギュッと目をつぶって俯いて、現実から目だけでも離した。
次の瞬間、私の体はザラザラとした暖かさに包まれた。
「確かにお前は本当に卑怯だな。わざわざこんないい景色の中で昔の話なんかしてよ。
——おかげでお前を好きだったときの気持ち思い出しちまったじゃねえか」
その言葉の意味が正確に身に染みわたったのは、たっぷり呼吸3回分の後。
耳が、頭が、心臓が、激しく震えた。
目眩の時みたいに意識が朦朧として、浮遊感が身を包む。
同時に、全身で日に炙られるような熱さが生まれた。
このままでは燃えてしまいそうで、抱きしめられていたガブくんの体から自分の身を離した。
もうまともにガブくんを直視することさえ、できなくなっていた。
「その……ほ、ほんと?」
「嘘ついてどうすんだよ。……本当に、お前を好きだった時はあったんだ。さっき話した時はほぼ全部だけどよ」
「その……今は?」
「……おかしいよな。どうせ聞いてただろうから言っちまうが、さっきまで俺はニンフィアが好きだったんだよ。そのはずだった。だがよ、どう考えたって今のこの気持ちは、お前が好きだ」
思わず私は口を押さえた。
そうでもしないと、この驚愕と嬉しさが入り混じった絶叫は抑えられないと思ったのだ。
強すぎる不安感から解放されて脱力してしまい、私はその場にへたり込む。
「お、おい。どうした!?」
ガブくんが上で慌てて心配したような声をあげた。
「もう、ガブくんのばか。嬉しいからに決まってるじゃない……!」
「そ、そうか。良かった。ほら」
ガブくんの太い腕が私に差し出された。
たくましい力を借りて、立ち上がる。
立ち上がった勢いそのままに、私はガブくんに抱きついた。
ガブくんも、私の背中に腕を回してくれる。
固く抱き合ったまま、いつまでもこうしていたいと願った。
森の天井から差し込む月明かりが、私たちだけを強調するように丸く降り注いでいる。