注:このSSは別の場所にかつて掲げたSSを整えたものです。
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(まずい、もう日が暮れる)
木々の影からチラチラと赤い光が漏れるだけの鬱蒼とした森の中、俺は草の根を分け獣道の横を走っていた。
もうそれぞれの巣へ戻ったポケモンも多いからか、獣道にはポケモン1匹見当たらない。
早く、誰かしら見つけないと。
(別にこの辺に寝っ転がるのもいいんだけど。縄張りとか面倒だしな)
さっさと次に住む場所を見つけたい。
その一心で俺はこの一帯を住処にしているポケモンを探して草の中をひた走る。
「……おっ」
いた。
茂った草を隔てた向こうの獣道に、緑のポケモン。
こうやって獣道にうろついて帰ろうとしているポケモンをこっちが先に見つけるために、わざわざ獣道から外れた草むらの中を走っていたのだ。
頭部、両腕、尻尾にも若々しい新緑の葉っぱが生えている、そのポケモンは。
(ジュプトル。――なら♂だよな)
にやり、と口角があがった。
ジュプトルという種族は♂が多いのだ。
外見からしても、このジュプトルは♀の感じはしない。
当分は寝る場所に困らなそうだな。
そんなことを考えながら、ゴソゴソッ! と目の前の草を揺らす。
ジュプトルが振り返ってこっちを見た。
ガサガサガサッ、とさらに強く揺らす。
ジュプトルが両手を構えて警戒しながら近づいてくる。
さぁ、今だ。
俺は草むらからゆっくりと出て行った。
力なくトボトボと俯いて、ジュプトルの前まで進む。
ジュプトルの腕が下に降りた。
警戒は解けたようだ。
そこで、はっと気づいたように俺は顔を跳ねあげた。
なるべく♀っぽい高めの音程意識して声を出す。
「あ……すみません」
再び俯いて、方向転換。
ジュプトルの前から立ち去ろうとすると――
「あの、大丈夫ですか?」
ジュプトルが話しかけてきた。
(よし、かかったッ!)
内心を決して出さないように注意しながら、俺はゆっくり振り向いた。
ジュプトルと真っ向に目を合わせる。
ジュプトルはただただ心配そうな表情だった。
「その……私、行くあてがないまま、日が暮れちゃいそうで……」
俺は力無い、高い声をジュプトルに伝え、続けざまに質問する。
「あの、あなたは……?」
「僕はジュプトル。君は?」
「ジャノビー……です」
「それで……行くあてがないっていうのは?」
それ聞いてくるのか、めんどくさい。
さて、どう言おうか……。そんな簡単に話も出てこないし、誤魔化すしかないよな。
「話さないと、ダメでしょうか……? あ、あんまり思い出したくないので……」
またしても、俺は俯いた。
ジュプトルの脚が2、3歩こちらに近づいてくるのが見えた。
「そ、そうだよね。事情もなく行くあてがないわけないもんね」
ジュプトルは言い終わると立ち止まった。
カサカサと木々の葉っぱが風に揺らされて鳴る。
ジュプトルの顔は見えないが、多分困惑しているだろう。なにせ自分が初対面のポケモンの地雷を踏んでしまったのだから。
「……えっと、行くあてがないんだよね? ♀1匹で暗いところ、怖いよね。僕のところでよければ……来る?」
(きたッ!)
心の中で勝利のポーズ。
勘違いの誘発は大成功だ。
しかし油断は禁物だ。
私、私、と俺は心の中で自分に言い聞かせる。
最初のイメージを決して壊さないように、一人称を取り違えるだなんて簡単なボロは出せない。
ぽかん、と俺は口を開け、それからだんだんと目も開く。
驚いた顔を作るのも板についてきた。
「い、いいんですか……? その、私迷惑になっちゃいますけど」
「だ、大丈夫! 僕木の上で1匹で暮らしてるんです。だからここにいるよりは安全かなと思うですけど、どうしますか?」
「じ、じゃあ、お願いしても、いいですか……?」
首を少し傾げて俺が聞くと、ジュプトルは頭の葉っぱを揺らして頷いた。
「うん! いいよ」
「ありがとうございますっ!」
(ありがとうございますッ!)
心の声も一致させて、俺は全力で頭を下げた。
何度も何度も、頭を下げる。
「そんな、大げさだよ。住処はこっち」
ジュプトルは苦笑した後、俺を振り返って見ながら歩いていく。
俺もそれに従ってちょこちょこと歩き始めた。
ジュプトルの後ろをちょこちょこ付いて行きながら、今の状況を考える。
さて。とりあえず寝床は確保したな。
ジュプトルは俺を先導するように俺の2歩前を歩いていく。
無防備に背中を見せているあたり、あんまり俺のこと警戒はしてない感じか。
それにしてもこのジュプトル、なんとなく頼りない雰囲気だな……。
いや、つべこべ言ってられねえ。
とりあえず少しでもお世話になればいい。
そのうちに周りの状況を把握して、それから今後を考えるのでも遅くないだろう。
今後の方針は流れで決めると決まった。
ジュプトルは何を思っているのか、時々振り返って俺がいることを確認はするものの話しかけてきたりはしない。
ただ歩くだけだと暇で、つい頭の中に哲学めいた思考が巡る。
……いい加減このやり口も手慣れたもんだよな。
♀のフリをして、♂にすり寄って恵んでもらう。
少しでも長く寄生できるように、なるべく気に入ってもらえるように、べったりそのポケモンにくっつくのだ。
食べる時も、寝る時も、ぴったりとくっついて、可愛らしく振舞って。
単純だが、ほとんどの♂ポケモンを引っ掛けることが出来る故に、今まで何度も使ってきた手段だ。
アイドルのような存在にもなったし、何匹のポケモンからも唯一の特別な存在として認められてきた。
そういう存在になるように演技してきたのだ。
好意を向けてくれる相手には好意を返したくなるもの。
そして時には好意が発展した特別な感情までも、俺は悪用する。
そう、また俺はポケモンを騙して生きようとしている。
俺はこんな汚い生き方しかできない。
いや、やろうと思えば自分で生きていくこともできるのかもしれない。
それくらいの力は多分俺にもある。
でも、一匹で生きようとはしない。
騙してまで他のポケモンにに寄生して、楽をして生きている。
いつもの良心の呵責。俺が生きていることを否定する悪夢にも似た思考。
振り払おうとしても自分では振り払うこともできず、ただ生きているのが辛くなる。
「大丈夫……?」
不意に話しかけられて、俺はようやく迷夢から覚めた。
「ん、あ、あぁ」
本性が出かけた。
「だ、だいじょうぶです! 全然、なにも」
「なんだか怖い顔してたので。すばやさ下がっちゃいますね」
ははは、とジュプトルは元気付けるような笑いをこぼす。
ジョークか何かのつもりだろうか。
こんな気分だからか全く面白くは感じない。
感じないが、少なくともジュプトルは俺よりもまともなポケモンのようだ。
不覚にも元気付けられたようで、余計に自分が情けなくなった気もした。
「ごめんなさい、ちょっと止まってもいいですか?」
「ん、いいよ」
足を止め、目を閉じ、限界まで息を吸った。
悪夢は追い出されるように消えていく。
ゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
「ありがとうございます。行きましょう」
「うん。もうすぐだよ」
ジュプトルは俺に気でも遣ったのかゆっくり歩き出した。
ジュプトル「ここです、着きました」
立ち止まってジュプトルが指差したのは、そそりたつ巨木だった。
ジャノビー「根っこの下……とかですか?」
ジュプトル「木の上ですよ」
ジャノビー「木の上!」
そういえば最初にそんなこと言ってたな。
確かに安全そうではある。
問題は俺が木でもなんでも登るのを得意としないことだが。
ジャノビー「わたし、木登り少し苦手で……」
ジュプトル「手伝うから大丈夫。行こう」
ジュプトルが木の根っこに足をかけた。
ジャノビー「じゃあ、お願いします」
ぴとり、と体をジュプトルに密着させながら俺も根っこに登った。
ジュプトルの体が若干強張る。
効果ありそうだな。
こう体を密着させるだけでも相手はすくなからずいしきし始める。
「ゆっくり行くのでしっかり足かけてください」
ジュプトルが木を登り始める。
俺もジュプトルにしがみつきしながら一歩一歩登った。
登る時間はそう長くなかった。
ジュプトルが幹から太い枝に足を移し、真似して俺も同じように。
まだジュプトルは離さず抱きついたままだ。
「ここです」
ジュプトルがこちらを見て言う。
怯えるようにおもむろにジュプトルから体を離して、辺りを見回す。
頭上から真横まで、ドームのように枝と葉っぱが広がっていた。
足場も枝が一本とか言うわけではなく、ちゃんと組まれていた。
木の枝の間に別の枝を渡して、技:草結びを使って繋ぎ止めてあるのだ。
木の上の生活があまり想像もつかなかったが、これは思ったよりも暮らしやすいかもしれない。
「なんだか快適そうですね!」
「うん。雨も案外入ってこないし、実際快適だよ」
住んでいる本人が言うならそれは間違いあるまい。
「……本当にこんないいところに一緒に住んでもいいんですか?」
「もちろん! 僕一匹じゃ暇だから」
「助かります。……本当にありがとうございます」
「気にしないで。1匹よりも誰かと一緒にいた方がいいから」
(1匹、か)
何か過去に事情があるのかもしれんな。
俺に有利に働くか不利に働くかはわからないが。
「そうだ! ここにきたなら景色見た方がいいよ!」
ジュプトルは手を打って俺に合図する。
「景色……?」
周りはドーム状の葉っぱで覆われている。
何を見ろと言うのか。
「少し葉っぱとか枝をかき分けてみて」
「わかりました……?」
言われるがままにガサゴソと枝をかき分け、頭を突っ込んで葉っぱのドームの外を見た。
「おぉ……!」
目の前に広がっているのは、真っ赤な夕焼け。
木の上だから、木に邪魔されて空が見えなくなることがないのだ。
赤を通り越して金に輝く球体は半分以上沈みかけていて、空は炎のようなオレンジに染まっている。
こちらからは見えないが、反対側は多分もう一面塗りたくった藍色に変化しているだろう。
久しぶりに綺麗な空を拝んだかもしれない。
「っとと……」
あぶね、と今度は心の中つぶやく。
我に返ってから、一瞬素に戻ってしまっていたことに気づく。
「綺麗ですよね!」
俺の横から並んで外に顔を出しているジュプトルに話しかけられた。
正体バレては……なさそうか。
「えぇ。とっても!」
「僕、この夕焼けを見てる時間は一番好きです。なんか、勇気がもらえるみたいで」
「勇気……?」
「うーん、僕もあんまりよく考えたことはないですけど、1匹だって明日も頑張ろうって気持ちになれるんです」
「確かに元気をもらえますね。私もこの景色は大好きです!」
一人称を除けば、この言葉に嘘偽りはない。
毎日見たら飽きるのかもしれないが、少なくとも今は見ていたいと思えるくらいには綺麗な景色だ。
「……あ、沈んできちゃいますね」
そうこう話しているうちに、太陽は姿のほとんどを山に隠してしまった。
あたりを薄闇が包み始める。
「戻りましょう」
「そうですね」
顔をドームの壁から引っこ抜いて、ジュプトルに向き合う。
「この後どうするんですか?」
聞くと、ジュプトルは床に座り込んで、木の幹に寄りかかった。
俺もそれに習って横に――すこしだけ距離を離して座る。
「んー、とりあえずきのみ食べよう。今日はちょっと多めに取ってきたから分けてあげる」
「いいんですか……?」
「だって食べるものないでしょ? 今更取りに行くにも暗くなっちゃったし」
「ん、じゃあ、いただいてもいいですか?」
「どうぞどうぞ~」
ジュプトルは3つのきのみを手渡してきた。
暗闇でよく見えないが、手渡された丸いきのみの一つを一口かじる。
微妙にたくさんの味が混ざったようなこの味、形からしてもオレンのみだ。
「今日はオレンの木が調子良さそうだったのでオレンのみを取ってきたんです」
確かにふつうのオレンのみよりもだいぶ美味しい。
実が張っていて食べ応えもある。
美味しくて、手渡された3つのうち2つを早くも食べきってしまった。
もう一つ食べられないことはないが、ここはひとつ仕込むか。
「お腹いっぱいになってしまいました。あと一つ、どうぞ」
「うん、置いといt……え?」
残るオレンのみを俺は床へは置かなかった。
木の幹に寄りかかるジュプトルの目の前に回って、ジュプトルの顔の前にオレンのみを差し出す。
ジュプトルは凍ったように動かない。
「……ぁ、嫌でしたら、すみません。置いておきますね」
俺は消え入りそうな声で儚げに言う。
我に返ったようにジュプトルが解凍される。
「いやただビックリしただけ、だよ」
差し出すオレンのみを引っ込めようとする前にジュプトルは目の前のオレンのみにかじりつく。
「ふふ……」
作った笑い声を漏らして、ジュプトルが目の前のオレンのみを食べきるのを待つ。
ジュプトルが全部食べ終わると、俺はジュプトルの横に再び座った。
今度はジュプトルの真横、距離0の場所へ。
ジュプトルの細くも温かい腕が触れる。
腕、あんまりがっしりはしてないな。まぁジュプトルって種族考えると別に普通なのか。
住んでるやつのことはひとまず置いといて。
この場所は結構気に入ったし、しばらくいさせてもらおう。
俺がジュプトルの品定めをしていることも知らず、ジュプトルはひたすら残りのオレンのみを食べていた。
「たくさん食べるんですね」
「うん、オレンのみは好きだからすこし多く取り過ぎちゃった」
「おかげで私、助かりました。ありがとうございます」
ジュプトルに寄りかかって、さりげなく腕に抱きつく。
「う、うん。どういたしまして」
動揺しているな。
動揺していると思うのが、何故だ。
腕に抱きつくついでに脈を見てみたが、そちらは至って穏やか。
動揺しているとは思えないのだ。
……情報が少ない今考えてもわからないか。
食べ終わった様子のジュプトルが息をついた。
リラックスモードのようだ。
薄闇の中でも、ジュプトルがうとうととしているのがわかった。
「あの」
「ん? どうしたの?」
今までもジュプトルの腕を取ってかなりくっついていたが、ほとんど全身をくっつけて、ジュプトルの顔に顔を寄せる。
「もう、寝ませんか」
吐息交じりにささやき、同時にぐいぐいジュプトルの腕を引っ張る。
「ちょうど僕も眠かったんだ。そうしよう」
ジュプトルが立ち上がり、歩いていく。
俺もそれに習って、ジュプトルとともに何やら部屋の奥の方へ。
そこには、どこから集めてきたのか、大量の葉っぱ。
「いっつもこれに埋もれて寝るんだ。暖かくて」
「へぇ……! なんだか気持ちよさそうです」
「うん、気持ちいいよ。早く寝よう」
ジュプトルは葉っぱの山へダイブした。
俺はその横に……おーーっと足が滑ったぁっ!
「――きゃっ」
横に寝るつもりを装って、ジュプトルの上に覆いかぶさるように倒れる。
「だ、大丈夫?」
「ごめんなさい! 滑っちゃって……。その、大丈夫ですか?」
暗くてジュプトルの表情は見えないが、声のトーンからして怒らせてはいないだろう。
「ううん、大丈夫。寝よう」
ジュプトルは俺を優しく横に転がした。
「あの、腕お借りしてもいいですか? 何かに抱きついてないと寝づらくて……」
「ん、別にいいよ」
「ありがとうございます」
許可を取って、俺はジュプトルの腕を抱きかかえた。
あえて許可を取ることで合法感を出していく。
何かに抱きついてないと寝られないやつだって広いこの世には多分いるだろう。
……温かいと意外と心地いいもんだな。
ジュプトルの腕の熱を感じながら、俺は全身の緊張を解いた。
そのまま寝てしまうのもいいが、それよりもまずは考えておかなければいけない。
今回――ジュプトルは寄生対象としてどうだろうか。
住処としては上出来だ。
ダストダスのゴミ屋敷とかいうわけでもなく綺麗で、木の上ならば比較的安全。
寝る葉っぱやわらかいし。
ジュプトル自身については――正直よくわからないところが多々ある。
頼み込まずとも住処に連れてきてくれたし、今のところ悪いポケモンではなさそうだ。
何か企みがあるのか、単純に警戒感が薄くてお人好しなのか、連れてきてくれた理由はわからない。
企みの方にも注意して動かないといけないかもしれないな。
口調が敬語交じりなのは、単純に心が幼いからだろうか。
体格は――初見だと頼りなかった。
しかし、実際に腕を握ってみると、肉付きは悪くなさそうだ。
いざというときは盾くらいにはできるかもしれない。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです。暖かくて、つい」
ジュプトルに話しかけられたのは、ぷにぷにとしばらくジュプトルの腕を揉んでいたせいだ。
まだジュプトルは起きているようなので、試しに少しきつめにジュプトルの腕へ抱きついてみる。
ジュプトルはなにかを言おうとしたが、その言葉は飲み込んだようだった。
これまで俺が相手にしたポケモンたちはこうやって抱きついてやると心拍数がかなり上がったものだが、どうだ。
腕の葉っぱの付け根に触れて、ジュプトルの拍動を確認する。
…………少し早くなった気もするが、取り立てて変わっていない。
ちょっとくらいドキドキしてくれてもいいもんだが。
先ほどの心が幼い可能性を考えると単純にまだそういう感情がわからないだけかもしれないか。
ダメだ、勝手な推測ばかり立ってイマイチわからない。
まだ考えても無駄かもしれないな。
どうせ当面はお世話になる。
ジュプトルの扱い方はぶっつけ本番で身につけていこう。
既に小さく寝息をたてているジュプトルの横で、俺もまぶたを閉じた。
つこここここ、と木が不自然に震えて俺は目を覚ました。
振動元は……下の方だな。
葉っぱの壁をかき分けて下界を見下ろす。
なんだ、ツツケラが木をつついてただけか。
そんなんで起こされて迷惑だなと思わなくもないものの、ツツケラだって巣を作るのに必死なのだ。仕方あるまい。
「ん、んん……ぅ」
振り向けばジュプトルが伸びをしていた。
「あ、おはようございます」
ぺこり、一礼しておく。
「ん、おはよう。太陽は……まだ早いね」
ジュプトルも葉っぱから顔を出して外を確認する。
太陽はまだ空を昇り初めて間もない。
明るくなってはきたが、まだ早朝だ。
「いえ、ツツケラさんの音で起きてしまって」
「あー、結構いるよ。僕はもう慣れちゃったけど」
「起こしてしまったならすみません」
「大丈夫大丈夫。早く起きても損ないし」
立ち上がってもう一度伸びをした後、ジュプトルは出口の方へ歩いて行った。
そのまま降りるつもりのようだ。
「起きたばっかりだと降りられなさそう?」
降りる寸前でジュプトルはこちらを振り返る。
「いえ。多分大丈夫です。多分ですけど……」
「わかったよ。じゃあ見てて」
ジュプトルの側まで寄ろうとしたその瞬間。
「とう」と軽い掛け声とともにジュプトルが飛び降りた。
「えっ……?」
絶句せざるを得ない。
昨日登った距離はそれなりにあったはずだ。大丈夫なのだろうか。
下を覗き込むと、ジュプトルはうまく着地したようで俺に手を振っていた。
「こんな感じだよ! どう?」
いやいやいや。どう? じゃないだろ。
そんな身のこなしをできるのはジュプトル一族ゆえであって、俺に同じ芸当を求められても困る。
あぁ、だから起きてすぐ降りることを聞いたわけか。
寝起きの動かない体でこの距離を降りられるか、と。
自分の中で勝手に合点が行ったが、そんなこと言っている場合でもない。
「えと、ちょっと私には無理かもしれません……」
「受け止めるから大丈夫! 降りてきてみて」
ひえっ……。
……いや。ここに住む間は何回もやることになるんだろうし、怖気付いていても仕方ない。
「…………えいっ!」
太い枝につるのむちを巻きつけて、住処からダイブ。
ぴんとつるを引っ張って体が空中で止まる。
つるを少しずつ伸ばせばゆっくりと降りられる。
「おぉ、上手ですね」
「えへへ、ありがとうございます」
ジュプトルが褒めてくれた。
ジュプトルはもう少し安全な降り方をしたほうがいいと思う。
ジュプトルにしてみれば小さな段差を飛び降りるようなものなのかもしれないが。
「それで、何をするんですか?」
どこへやら向かっていくジュプトルの背中に問いかける。
「きのみ取りに行くよ。貯めてるポケモンも多いみたいだけど、取りすぎたりしたくないから僕は食べる時に食べる分だけ取ってるんだ」
おぉ、環境に優しい。
最近は取りすぎて新しい木が生えてこないなんて場所もあったからな。
「私も自分で食べる分取ればいいんですね!」
「そう。今日はここだよ」
ピタッと止まって、茂みに目をやるジュプトル。
そのまま草むらの中に入って行った。
俺も同じように草むらをかき分けた先にあったのは、数本のゴスのみの木。
どれもはち切れんばかりの大きな実がいくつもなっている。
「美味しそうですね! どうやって見つけたんですか?」
「んー、昨日から目をつけてて。散歩したりしたときに見つけるのを覚えとくんだ」
「そうなんですね。私も一緒に散歩したいです」
「じゃあ食べたら行きましょう」
言うが早いがジュプトルはゴスのみを鷲掴みにしてひとかじり。
ジュプトルの口の横から果汁が溢れ出る。
俺もつるのむちで一個もぎ取って、口へ運んだ。
――甘い!
一度しか食べたことはないが、そのときもここまでは甘くなかった。
口の中が甘みで溢れるようで、甘みの奥の微かな苦さのおかげでくどくはない。
いくつでも食べられそうだが、大きさ的にすぐに腹に溜まってしまいそうだ。
今だけはゴスのみに夢中でジュプトルのことも忘れていた。
3つのゴスのみを平らげて、ふぅ、と一息。
辺りをみればジュプトルは草陰に座って俺を待っていた。
「あ、すみません待ってもらって。美味しくて、つい」
「ううん、いいよ。美味しいよねゴスのみ」
「はい!」
意識せず自然と笑みが漏れたことに、大きく頷いてから気づく。
ちくしょう、悔しいが本当に美味かった。
「じゃあ……食べた後だしゆっくり散歩でもしませんか」
「是非!」
今度は意識して作った笑みで、もう一度頷く。
ひょいとジュプトルは立ち上がって、辺りを見回した。
「んー、今日はこっちかな」
……こっち、とは今ジュプトルが向いている方向であっているのだろうか。
すなわち、来た方とは真反対のただの草むら。
「あの、この中ですか?」
「うん。ちょっと場所探してて」
「そ、そうなんですか……」
早速ジュプトルは草むらの中に突入してしまう。
もっと道としてできてるところを歩くもんだと思ってたのに、まさか新たに道を作る方だったとは。
まぁ……是非って言っちゃったしなぁ。
仕方なく、俺も草むらの中に突入する。
丈の長い草をかき分けると、顔に葉っぱがペタペタくっついてきてうざったかった。
しばらく歩くと、突然草むらが終わった。
ひらけた場所――というほどでもないが、草むらが丸く切り取られたような場所だ。
頭上の木の葉も少しまばらで、木漏れ日が眩しい。
「ん、ここでいいや」
ジュプトルが何やら呟く。
「どうしたんですか……?」
ジュプトルはこちらに背中を向けたまま、腕を振りかぶった。
虚空に向かって殴ろうとしている……?
すると、ジュプトルの腕の葉っぱがきらめき出した。
腕の葉っぱが瞬く間に鋭利で少しいびつな形状に変化して――
ぶん、とジュプトルは腕を一振り。
目の前の草が2、3本切れて落ちた。
(弱いな)
という本音は心の中にしまっておいて。
「毎日、練習してるんです」
ジュプトルがこちらを見て言う。
「えと、技……ですか?」
「リーフブレード。まだあんまりうまくできなくて」
「あれでも上手じゃないんですか。わたしは、すごいと思いました」
「そう、かな?」
「はい! なんだかかっこよかったです」
「そうかな……あはは。ありがとう」
いい感じにご機嫌取れたな。
チョロい、そんな確信。
それにしたって、なんだってこんな草むらの中で練習なんかしてるんだ。
辺りを見回しても特に理由らしきものもない。
「見られたくないじゃないですか。完成してない技の練習なんかかっこ悪いし」
ジュプトルが心を読まれたような言葉を投げかけてきた。
正直かなりドキッとした。
思わず背筋も伸ばしてしまったくらいだ。
俺が辺りを見回していたからわかりやすかったのかもしれないが、それにしてもやっぱり油断はできないかもしれない。
ジュプトルは手に力を込め、葉っぱを刃状にする練習をしている。
やっぱり形はいびつだ。
あれではあまり切れそうにない。
「どうして、リーフブレードなんですか?」
「ん、そんなに深い理由があるわけじゃないんだけど。母さんがカッコよくて僕も真似したかったんだよね。未だにできないんだけど、続けてる」
「母さん……?」
「うん。母さん強かったんだ」
強かった、か。
少しだけ話を聞いたのが申し訳なくなった。
「……今はもういないけど」
あぁ。知ってるよ。予想通り。
もしかしたら、あのいびつな刃もここまでできるようになったって感じなのかもしれないな。
「ご、ごめんなさい……」
「ううん。だいぶ前のことだし、もう大丈夫だから!」
「そ、そうですか。よかった」
しばらくジュプトルが無言で刃を振り下ろすのを眺めているだけの時間が流れた。
木漏れ日の差す向きが変わって少し経つ頃。
やっとジュプトルは振り続けていた腕を止めた。
「今日はもういいかな。ちょっと飽きちゃった」
腕の葉っぱをひとなでして、ジュプトルは端で座り込んでいた俺の方に近づいてくる。
「リーフブレードかっこよかったです」
「そう? まだ全然切れ味ないし……でもありがとう」
「はい! 他にはなにか得意なことってないんですか?」
まんざらでもないジュプトルへ、さらなる褒め落としのために俺は新たな話題を投下した。
「うーん、そうだなぁ。……あ、じゃあおいかけっこしよう」
「おいかけっこ?」
「うん。帰り道僕が逃げるから、捕まえて」
「で、でも、ジュプトルさん疲れてますし……普通に歩けばいいんじゃないでしょうか」
「いいのいいの。楽しいよ」
言うが早いが、ジュプトルは一目散に駆け出した。
「あっ、待ってください!」
急いで俺も走り出す。
草むらの中で翻弄しようというのだろうが、俺も同じ草タイプ。他のポケモンよりは草に紛れるジュプトルを見分ける力がある。
それに、逃げることが多かった俺は自慢じゃないがかなり速い。
事実ジュプトルとの距離はぐんぐん近づいていた。
「も、もうすこし、です!」
あと1歩、2歩、その程度の距離が縮まればでつるのむち圏内だ。
さっさと捕まえてやろうとつるのむちを構え――
「あっ……!?」
俺は唖然と立ちすくんだ。
ジュプトルがいきなり飛び上がったかと思えば、そのまま降りてこないのだ。
頭上を見上げれば、木の枝を飛び移ってさっき以上のスピードで俺から離れていくジュプトルの姿が見えた。
(速い……それは聞いてねえ……っ!)
一瞬絶望したものの、このまま負けるのもなんとなく悔しいので気持ちを切り替える。
ジュプトルのいる高さはそう上ではない。
なら、完全に追いつけばつるのむちで捕まえられるだろう。
久しぶりに面白くなりそうじゃねえか。
俺はさらに草の中を走るスピードを上げた。
「はぁ……はぁ……くっ……」
ジュプトルは、いつまで走る気なんだ。
もう俺の全身が悲鳴を上げているというのに、相変わらずジュプトルのスピードは落ちない。
もうジュプトルの背中はだいぶ先まで行ってしまった。
俺だって体力がないわけではない。
今まで何度ポケモンから逃げたかわからないし。
そんな俺でも追いつけないスピードをずっと維持するジュプトルは、はっきりいって異常だ。
こうなったら、ジュプトルを止めるしかない。
「……きゃぁっ!!」
なるべく大きな声で叫びながら、俺は地面につまずいてその場に倒れこむ。
もちろん転んだフリだ。
さてジュプトルは――っと。
おっ、降りてきたな。
ジュプトルは一目散に俺のところに走ってくる。
「だ、大丈夫!?」
「は、はい……怪我もしていないので」
ジュプトルの謎の剣幕に気圧されて、うまく返事ができなかった。
「よかった。ごめんね、周り見ないで速く走りすぎちゃって」
嫌味か? と一瞬思ったが、ジュプトルは至って真剣な顔つきでまじまじと俺を見る。
「手は大丈夫?」「脚は大丈夫?」と一つ一つ確認され、その度に俺は「大丈夫です」と答える。
……転んだ程度で何をそこまで。
そこまで心配されると、転んだふりをしてしまったのが何だか申し訳ない。
心配してくれていたのに嫌味のように聞き取ってしまったこともあって、余計に自分が恥ずかしかった。
「……あ」
「どうしたの? やっぱり怪我あったの!?」
「その……えい」
呟きながら、両手でジュプトルの腕を掴む。
「捕まえました。えへへ」
怪我は大丈夫だという意味も込めて、おどけて笑ってみせる。
「そういえば追いかけっこしてたの忘れてた。負けちゃったなぁ」
ジュプトルは何を悔しがっているのか苦笑している。
……本当にこいつは意味がわからないな。
俺たちは適当な木を探して、もたれかかって座り込んだ。
それ以上動く気力もなくて、お互いの荒い息だけが押しては引く波のように弾む。
「ひ、久しぶりに……はぁ……こんなに、運動、しました……」
「僕も、こんなに走ったの、久し、ぶりだよ」
荒い息のまま無理やり喋ろうとするんじゃなかった。全然何を言っているか聞き取れない。
呼吸が整うまで、しばらく深呼吸。
「……ふぅ~。ちょっと落ち着いてきたね」
「はい。体はまだちょっと疲れてますけど……」
「もう少し休もうか」
「あ、でも、もう少し頑張ったら住処で休めるんじゃないですか?」
「……あ」
ジュプトルが間の抜けた声を出す。
……あまりいい予感はしないが、一応聞いてやろう。
「ど、どうしたんですか?」
「……走るのに夢中でここどこかわからないや」
「え、えぇ~!?」
住処に帰るって言ってたんだからちゃんと帰れよ!
確かに通りでずっと走ってるとは思っていたが……それを考えると俺もほとんど気づいてなかったからジュプトルのことは言えないのだろうか。言うけど。
「ちゃんと帰ってくださいよ! も~……」
「ご、ごめんなさい。仕方ないから、しばらく休んでいこう」
まぁ、仕方なかろう。
全身を脱力して、なんとなく自分の手を見た。
草むらも構わず駆け抜けたせいで、かなり汚れてしまっている。
ここは木陰なのであまり関係ないかもしれないが、光合成のためにも体は綺麗にしておきたい。
「あの、ひとつだけいいですか?」
「どうしたの?」
「体、汚れちゃったので……水浴びがしたいです」
「水浴び? えっと、川ってどこにあるかな……」
ジュプトルはじっと目をつぶって動かなくなった。
「……? 何をして……」
「ちょっと、静かにしててね」
川の流れでも聞きつけようと言うのだろうか。
「……わかった。行こう」
本当に聞きつけやがった……のか?
「あの、川の場所がわかったんですか?」
「うん。ちょっとだけ聞こえました」
得意げな顔で言うジュプトル。
「本当ですか! すごいです!」
「そう? ありがとう」
嬉しそうな顔をしながら、ジュプトルは川の方へ歩き出した。
「……お~」
本当に川があった。
決して多くはないが澄んだ水が確かに流れていた。
「綺麗な水だね」
「はい! 飲んだらすごく美味しそうです」
俺たちは水が流れているギリギリまで近づいて、水を手ですくってみた。
そのまま口へ運ぶ。
混じりけのない、純粋な味だ。
「美味しいね、この水」
「はい! すごく美味しいです」
さて、俺は汚れを落とすとするか。
「じゃ、じゃあ僕は夕方にきのみ取ってくるね」
ジュプトルはそそくさと去ろうとしている。
水浴びなんかまたとない接近チャンスだ。
もう散々接近はしているが、回数を増やして損はない。
「あ、きのみはあとでも取れますし……一緒に水浴びしませんか? 気持ちいいですよ」
「いいよいいよ。取って良さそうなきのみ探すの割と疲れるし」
「……だめ、ですか?」
「……その、僕水苦手なんです」
ジュプトルは恥ずかしそうに苦笑いする。
「そ、それならしょうがないですね……きのみお願いしてもいいですか?」
「うん! 任せてください」
ジュプトルはひとっ飛びで上の枝に飛び移って、どこかへ飛び去っていった。
それにしても、水が苦手ってどういうことなんだ。
別にゴローニャでもあるまいし。
泳げないとかそういう話なのか?
まぁいいや。
ジュプトルが帰ってくるより先に体を全身洗っておこう。
「……やっと帰ってきたね」
両手いっぱいにきのみを抱えるジュプトルと並んで、住処の木の前で立ち尽くす。
道に迷ったのだからそんなに簡単に帰れるわけもなく、水浴びを終えて合流してからここまでくるのに太陽はもう沈みかけだ。
「はい……たくさん迷っちゃいましたね」
「ごめんね、僕が適当に走っちゃったから」
「いえ! 迷っちゃいましたけど、私楽しかったです!」
疲れた体で歩き回るのは全く楽しくなかったがな。
川の水は気持ちよかったし、まぁ許してやろう。
「そっか、それなら迷ってよかった、のかも」
「でも、私久し振りにたくさん歩いたので疲れちゃいました……。早く休みたいです」
「そうだね。僕もすごく走ったから疲れちゃった。早く登ろう」
「……あの、ジュプトルさん。きのみどうするんですか?」
「……あ、どうしようかな」
両手にたくさん抱えたきのみを持ったまま登るのは流石に難しいだろう。
高いところへ物を運ぶ……アレだな。
「あの、私にいい案があるんです。きのみ、もらってもいいですか?
「ん……? はい。僕はどうすればいい?」
両手いっぱいのきのみをツタでなんとか受け取って、俺は指示を出す。
「先に上に登っちゃってください。下から送るので、受け取ってくれますか?」
ジュプトルは薄闇でもわかる怪訝そうな顔をした。
「下から送る? どうやってやるんですか?」
「それは、やってみてのお楽しみです」
「わかった。じゃあ先に登るね」
両手が空いたジュプトルは、ひょいひょいと木を数秒で登っていってしまう。
「それで、どうするの?」
「こうです!」
俺はツタでもったきのみを全て真上に投げ上げた。
「と、届かないよ!?」
「大丈夫です!」
そう叫んで俺が放った技は、グラスミキサー。
飛ばした葉っぱが竜巻のように渦巻く技だ。
渦の進む方向は自由自在、つまり上にも飛んでいく。
俺の狙い通り、葉っぱの渦は宙のきのみを飲み込んでジュプトルの前まで飛んで行った。
葉っぱの渦が散り散りになると、果物が落ち始める。
それをジュプトルは一つ残らず取って見せた。
「すごいね! グラスミキサー?」
「はい! たまたま思いついたんです」
さて、俺も登らなきゃいけないんだよな。
木のデコボコに足を引っ掛け、つるのむちを木の枝に引っ掛け、なんとか登っていく。
住処のところまできたら、ジュプトルが引っ張り上げてくれた。
「ありがとうございます」
「こっちこそありがとう。1匹じゃきのみ運べなかったよ」
そもそみ1匹だったらそもそもあんなにたくさんのきのみ持ってこないけどな……。
「いえ、私こそ、ジュプトルさんと一緒にいるおかげで楽しいですから。私1匹の時よりも♂ポケモンと一緒にいる方が襲われにくいですし」
ジュプトルは、なぜか一瞬困った表情をする。
しかし、すぐに笑顔になって、勢いよく頷いた。
「え、あ……うん! それならよかった!」
そのまますたすたと先に奥へ行ってしまった。
改めて言われると恥ずかしかった、とかなんだろうか。
ジュプトルが持ってきたきのみはイアのみだった。
やはり、美味かった。
さっさと食べ終わって、ジュプトルを待つ。
さりげなくジュプトルに寄りかかってジュプトルの熱を右側に感じながら、俺は思考を巡らせる。
……巡らせようとしたが、頭に靄がかかったように不鮮明で、うまく考えられない。
本当に今日は疲れた。体が疲れるだけでこうも何もできなくなるのか、と不思議なくらい。
でも、同時に少し楽しかったのは何故なのか。
「ん~、美味しかった」
ジュプトルも食べ終わったようだった。
「食べちゃいましたし、寝ますか?」
「うん、そうだね」
ジュプトルの腕に抱きついたまま、一緒に立ち上がって葉っぱのベッドへ向かう。
同時にベッドに倒れこむと、葉っぱが巻き上がってちょうどいい具合に俺たちの上に降り注ぐ。
「葉っぱでも割と温かいでしょ?」
「はい。でも、その、ジュプトルさんの腕の方が温かくて……」
「そんなに温かい? それで心地いいならいいけど」
「なんだか、落ち着きます」
「そっか。そのまま寝てもいいよ」
まぁ断られない限りそのつもりだったが。
体を半分、ジュプトルにぴったりとくっつける。
「あ、暑く、ないですか?」
「大丈夫だよ」
「よかったです。このままでも、いいでしょうか」
「うん……」
ジュプトルが呂律の回らない眠そうな声になってきた。
「おやすみ、なさい」
「ん……おやすみ……」
すぐあとに、ジュプトルの小さな寝息が聞こえてくるようになった。
俺も葉っぱに沈んでいくようにさえ錯覚するくらいには疲れで体が重かった。
葉っぱの海に沈んでいくのと同時に、まぶたも少しずつ落ちてきた。
今まで色々なポケモンと一緒に寝てきた中で一番の温かさは、多分葉っぱのおかげ。
心地よい熱の中で意識はしばらくたゆたって、落ちた。
ここで起きるのも、もう十数回目。
いいことか悪いことかはさておき、いい加減慣れてきてしまった。
「おはよ、ジャノビー」
「おはよ~」
意識して出す高い声なのは継続中だが、十数日の中でいろいろと変化があった。
「きのみ、取りに行こうか」
まず、ジュプトルの敬語が完全に抜けた。
初め口調が硬かったのは、単に俺のことを警戒してただけらしい。
「うん! 今日はどんなきのみ?」
それに伴って、俺も敬語を抜き始めた。
そっちの方が心の距離縮まるしな。
親しくなって悪い気しないのがポケモンという生き物だ。
「それはわからないけど……」
「ひゃっ!?」
「だ、大丈夫!?」
いつものようにさくっと木から降りようとした俺だったが、今回は運悪く足を滑らせてしまった。
結局ツタで木の枝に捕まってゆっくり降りたので怪我も特にないが――
「大丈夫? 怪我は?」
ジュプトルは一向に俺の素性に気づかない。
ここまで生活してきて、ボロが出ることもいくつかあったはずなのに。
注意力が低いんだろうか。まさか気づいてるのに泳がせてるなんてこともないだろうし。
そして、正体に気づかないどころか俺に優しすぎるくらい優しいのだ。
ちょっと転べば怪我をいちいち確認するし。
きのみでもなんでも美味しいところくれるし。
俺みたいな心の汚いポケモンは、何か裏があるんじゃないかとつい疑ってしまう。
「ううん、大丈夫。心配してくれてありがと」
「大丈夫ならよかった。じゃあきのみ探しに行こう」
「うん!」
俺たちは並んで歩き始めた。
俺はさりげなくつるのむちでジュプトルの腕を取る。
毎度のことながらよく熟したきのみを食べ終わって、俺たちは例のひらけた場所にいた。
俺が見てきた今日まで1日も欠かさずジュプトルはリーフブレードの練習をしているのだ。
10日経とうが相変わらず刃の形成はいびつで上手くできていない。
それでも刀身が少し伸びているだろうか、進歩がないわけでもなさそうだった。
「……99……100! 一旦休憩かな」
ジュプトルが俺の横に座り込んだ。
意外と体内エネルギーを使うらしく、振り終わった後はいつもこうだ。
それでも、少し休んだ後にジュプトルはまた続けようとする。
その精神力はすごいと素直に思う。
「……私もちょっとやってみようかな」
つい、ちょっとした思いつきだ。
「お、なんの練習するの?」
俺ができる技……つるのむち、グラスミキサーは練習しなくてもいいし。
大技といえば……リーフストームか。
「じゃあ、リーフストームをやろうと思います」
「リーフストーム……!?」
ジュプトルは驚愕に満ちた顔。
まぁ草タイプで1番の大技だからな。驚いても変じゃない。
俺も最近習得したばっかだし。
「どうしたの……?」
「あ、いや、ジャノビーってもしかして強いのかなって思って」
「わからないけど、バトルは苦手、かな……」
「そうなんだ。すごい技出来るんだね」
「あ、ありがとう……」
さて、打ってみるか。
尻尾に意識を集中する。
体内のエネルギーを尻尾に集めて、葉っぱの形で打ち出すのだ。
よし、そろそろ!
目一杯飛び上がって、俺は草むらめがけて尻尾を振った。
尻尾に渦巻いていた葉っぱが風を巻き起こしながら草むらに直撃して、草を薙ぎ払っていく。
……と思いきや、すぐにパッと霧散してしまった。
もう少し飛ぶと思うんだけど——
「なっ……」
葉っぱの嵐が晴れた先には、1匹のニドラン♀がいた。
リーフストームが消えたのは、おそらくニドラン♀にぶつけてしまったから。
ニドラン♀の腕から血が一筋垂れる。
呆然としていたニドラン♀が、垂れた血を見て泣き出した。
びええええええええええええええっ!
その場一帯にニドラン♀の大きすぎる泣き声が響き渡る。
半ば頭が真っ白になりながら、急いで俺はニドラン♀へ近づいた。
しかし、それは悪手だった。
ニドラン♀に話しかけようとする俺の声に、低い声が被さった。
「……貴様」
恐る恐る、声のした右方向を向く。
そこには、魔王のような、なんて表現じゃ生ぬるいくらいに怒りで顔を歪めたニドキングが立っていた。
「貴様ァァァッ!!!」
ニドキングは怒りに任せた声を張り上げ——一瞬のうちに俺との距離を詰めた。
驚きか、恐怖か、俺の体は動かなかった。
ニドキングの腕が毒々しく紫色に染まる。
その腕が俺に突き刺さるのを、俺は避けることもできなかった。
腹にまともに毒づきを受け、俺にできるのは自分の体が宙に舞うのをただ感じることだけ。
なにかを考える間も無く地面に打ち付けられ、勢いのまま数回転転がる。
体が止まると、遅れて鈍い痛みがやってくる。
同時に喉が詰まってしまったように息が吸えなくなる。
(ダメージが思った以上に大きい……闘争心か)
闘争心。同性への攻撃が強力になり、異性へのダメージは弱まる特性。
ニドキングは♂。俺も♂。
思考だけが冷静に判断できても、体はたった一撃の毒づきで動くこともできなくなってしまっている。
それでも顔を動かして、俺は飛ばされてきた方を地面に倒れながら見あげた。
しかし、ニドキングの姿は見えなかった。
(ジュプトル……っ!?)
俺とニドキングの間にジュプトルが割って入っていたのだ。
ジュプトルが飛び上がると、ニドキングが毒づきをしているのが見えた。
空中へ避けて、ジュプトルは上からリーフブレードを発動した。
長く立派な刀身が腕から伸びて、ニドキングの脳天を狙う。
しかし、ニドキングはそれを頭を縮めて避ける。
(ジュプトルには、攻撃するなッ……!!)
俺の思いも虚しくニドキングは下から毒づきでジュプトルの体を突き上げた。
ジュプトルの体が宙に舞う。
のっしのっしとニドキングがこちらへ歩く裏で、ジュプトルの体が地面に叩きつけられた。
ジュプトルへのダメージも、俺と同じように闘争心で増してしまっている。
あんな状態で受けたらジュプトルは俺以上のダメージを負っているはずだ。
やっと息が復活して、俺は地べたに這いつくばったまま大きく息を吸い込んだ。
元は俺が悪いんだ、早くジュプトルから注目を逸らさなければ。
腹の鈍い痛みで力が入らない体を鼓舞して立ち上がる。
しかし、ニドキングは容赦がなかった。
ニドキングの口が赤く光る。
発射されたかえんほうしゃに、俺はなすすべなく包まれた。
熱い……熱いッ……!
喉が反射的に声を絞り出そうとするが、声すらも出なかった。
再度地面に倒れた衝撃とともに、世界が暗くなった。
ゆら……ゆら……、体が揺れているのを感じる。
俺は海に1匹浮かんでいた。
照っている太陽は、熱いというよりは温かい。
そしてなにより、海の中が優しい熱にあふれていた。
海流が仰向けに浮かぶ俺を押し流していく。
その流れもまた心地いい。
……ん? 波が少し荒れ始めたな。
ざばっ、ざばっ、語りかけるように波が音を立てる。
次の瞬間、俺は前方の大きな波に跳ねあげられて空中に投げ出された。
最高点まで俺の体が上昇して——
ハッ。
唐突に目が覚めた。
……ここは?
目の前は、葉っぱの天井。
「ジャノビー! 起きたの!? 大丈夫?」
よりも視界の大きな割合を占める、下から見たジュプトルの顔。
「ぅ……あ、ぇ?」
「今住処に着いたんだ! 待っててね!」
「ぁ……」
俺の体が床に着いた。
ジュプトルの腕が背中と床の抜き取られ、同時にジュプトルが視界から消える。
頭がぼんやりと霧がかかったようになにも認識しない。
「…………」
……そうだ、俺は、ニドキングに攻撃されて……今、住処にいる。
俺は、ジュプトルに運んでもらったのか。
もしかして、さっきの夢の大波は、ジュプトルが大きくジャンプしてここに登っていた時なんだろうか。
ずきん、と腹が殴られたのを思い出して痛くなって、思考が散っていった。
まだダメージから回復はしていないようだ。
痛みに頭を支配されながら、俺はジュプトルを待った。
「おまたせ! 飲んで!」
奥からジュプトルが走ってきた。
葉っぱに包まれていたのは、ふっかつそうをすりつぶしたペーストだった。
「……にがいやつ」
「いいから! 早く飲んで!」
ジュプトルはずいっとペーストが乗った葉っぱを俺に突き出す。
ふっかつそうは、瀕死の状態でも体が良くなるほどの効き目を持った薬草だ。
しかもそうぽんぽんと生えているわけではない。
それをわざわざ出してくるのは、俺への気遣い以外におそらくないだろう。
苦いのが嫌い、なんて言っている場合ではない。
「…………あり、がと」
ツタで少しすくって、ぺろりと舐めてみる。
口の感覚がなくなってしまいそうなくらいの痺れる苦さ。
思わず顔をしかめる。
これは、少しずつ食べていても苦しむ時間が伸びるだけのやつだ。一気に片付けよう。
ふっかつそうの乗った葉っぱごと、俺は一気に口へ運んだ。
「そ、そんなに大丈夫?」
こく、と頷いて平静を装う。
しかし内心の平静までは保てなかった。
口いっぱいに苦味が広がって、むしろこれで体調が悪くなってしまいそうだ。
苦味に耐えて、一気に飲み込む。
全部飲み込んだはずなのに、まだ口の中には苦さが後を引いている。
「ほんとに大丈夫?」
苦い口では喋る事も億劫で、俺はこくこくと頷いた。
「じゃあ、ふっかつそう飲んだら寝なきゃね」
再び、こくこくと頷く。
「僕はきのみ探してくるね。起きてから食べたいでしょ。じゃあ、おやすみ!」
ジュプトルはそう言うとすぐにまた住処を出て行った。
俺は1匹、床に残された。
あれからしばらく寝ると、ふっかつそうのおかげかだいぶ痛みも引いた。
日も傾いてきているので、それなりに寝ていたのだろう。
体の調子が戻ってくるにつれて、頭も動くようになってくる。
(今回はジュプトルがいなかったら俺もどうなってたかわからないな)
いや、ジュプトルがいなかったらあんなところでリーフストームなんか打ってない気もするけど。
ニドキングの毒突きにかえんほうしゃ、本当によく効いた。
闘争心で補正されているのはあっただろうが、あんなのがうようよしているならここって結構危険なんだろうか。
ジュプトルはよくこんなところで生活できるな。
ジュプトルも毒突き受けてたよな。
あれを受けてなお今動けているということは案外頑丈なんだろうか。
あいつへの攻撃も闘争心の補正が乗っていたはず——
「……おい、待てよ」
——俺は、1つの可能性に気づいて声を漏らした。
ジュプトルはここまで来るのに多分俺を担いでいるはずだ。流石にあの毒突き受けてから俺を担いで走る体力が残るわけがない。
闘争心の効果は……自分と同じ性別、ニドキングであれば♂への攻撃ダメージが上がって……。
「♀への攻撃ダメージが、下がる……ッ!」
可能性、あくまで可能性だ。
ただ単にジュプトルが尋常でなく頑丈なのかもしれない。
だが、仮にジュプトルが♀だとするならば。
今までジュプトルが♂だと思って取ってきた俺の行動は、全部無意味。
その上でジュプトルは俺に優しくしてきた、ということになる。
俺の行動が全部無意味ということは、ジュプトルが俺に優しくする理由なんてないはずなのに。
「…………余計に分かんねェ」
俺は呻いた。
「なにがわからないの?」
唐突にかけられる声。
俺は思わず背筋をピンと伸ばした。
「あ、ジュプトル……おかえり」
「きのみ、取ってきたよ。……で、どうしたの?」
「あ、あー、うん……」
どうしようか。
言わない方が、このままの生活を続けた方が、多分楽だ。
そもそもジュプトルが♀かもなんて可能性だし、違ったらそれなりに失礼だ。
言わない方が、いいはずだ。
言おうか言わないか、俺の中で二つの選択肢が揺れる。
喉まで出かかって、それを飲み込んで、そんな葛藤を2、3回繰り返す。
「だ、大丈夫……?」
「あの。ジュプトルは、さ。その……その、♀なの?」
ジュプトルが、れいとうビームを受けたみたいに動かなくなった。
目だけがその驚きを表すみたいに見開いていく。
「ご、ごめんなさい、変なこと言って……そそ、そんなわけないですよね!」
慌てて修正してみても、ジュプトルはまだ固まったまま。
「……あの? ジュプトル、さん?」
顔を覗き込むと、やっと動き始めた。
「えっと……ごめんなさい!」
いきなりジュプトルが勢いよく頭を下げた。
俺には何が起こっているのかわからない。
「どうしたんですか……?」
ジュプトルは下げた頭を中途半端にあげて、うなだれる。
「……合ってるんです」
「じゃあ……」
「はい、僕は、♀です」
やはり、そうなのか。
まさか俺と同じことをしている奴がいるとはな。
「どうして、隠してたんですか」
言ってから気づいた。
あくまで俺は責める姿勢を取っていた。自分も重ねてカミングアウトする姿勢では絶対にない。
自分のことを棚に上げて、俺は今ジュプトルを責めようとしている。
どれだけ悪行を重ねる気なんだ、俺は。
そんな俺の思考など知らないジュプトルは、俺から視線を逸らして左下をずっと見ている。
「ジャノビーと一緒にいるのが楽しくて……」
「私といるのが、楽しい?」
謎の発言に聞き返すと、ジュプトルはこくんと一つうなずいた。
「お母さんがいなくなってから、僕はずっと1匹でした。だから、嬉しかったんです。誰かと一緒にいられるだけで。もちろんそれはジャノビーが優しかったからですけど」
俺が? 優しい?
意味がわからんことを言う奴だな。
聞こうとしたが、先にジュプトルが話し始めてしまった。
「前に、♂に守ってもらえていい、みたいなことを言われた時に、僕が♂だと勘違いされてることに気づいて。僕が♀だって知ったらどこかへ行っちゃうんだと思ったんです。……さ、最初は隠すつもりはなかったです! でも、僕はずっと隠してました。本当に、ごめんなさい……」
……ジュプトルが♀であることを隠そうとするまでは1日分くらいはあったはずだ。
つまりそれまでは俺がただジュプトルを♂だと勘違いして疑わなかった。
ジュプトルはこう言うが、1日あって全く♀だと気づかない俺はどうなんだ。
久しぶりに、自分に絶望した。
「わ、私こそ気づかずに勘違いしてて、ごめんなさい」
「ううん。僕が悪いから」
ジュプトルが首を横に振った後、お互いに何を言っていいかわからなくなった。
気まずい沈黙が、座った俺と立っているジュプトルの間に流れる。
何を話そうかと目線を動かしていると、絞り出すような掠れた声が耳に届いた。
「いいよ、僕なんか気にしないで出て行っても。騙してるポケモンと一緒になんかいたくないよね」
——どうする。
正直今の環境は手放しがたい。
♂の守りの手はないと言うが、10日間で♀2匹に絡んでくるポケモンもほとんどいなかったわけだし。
ジュプトルが騙していた理由は、俺といるのが楽しいから。
……俺といるのが楽しい、ね。
「ジュプトルは、どうしてほしいの?」
「僕は……これまでと変わらなければいいなって、思うけど……」
風になびく、枯れ木の最後の一枚の葉っぱのような頼りない声だった。
「じゃあ、いいよ。私、ここにいる」
俺の言葉を聞くや否や、ジュプトルは顔を跳ね上げて俺を見つめた。
「も、もう一回聞いていい……?」
セレビィでも見たみたいな、「信じられない」と書いてある顔でジュプトルは聞き返す。
「私、ここに残るよ」
「なんで、一緒にいてくれるの?」
「ジュプトルは、なんで私にいてほしいの?」
「それは、ジャノビーと一緒にいるのが、楽しくて……」
ジュプトルの頰に、一筋光が伝った。
「また、1匹になりたくなくて……」
2つ、3つ、次々とジュプトルの頰を涙が伝う。
母親のこと、「もう大丈夫だから」なんて言ってたけどやっぱりショックなんだろうな。
いざとなったらもちろん切り捨てるつもりだが、問題ない間はいてやってもいいだろう。
つるのむちでジュプトルを引き寄せて、ちゃんと腕で優しく抱きしめる。
「そんなに泣かないで。私はいるから」
「……ありがとう」
ジュプトルの背中を撫でてやって、落ち着くように促す。
「私も、ジュプトルのこと好きだよ。だから一緒にいる」
「…………ぇ」
まぁ嘘ではない。
今の生活はこれまでの中でもかなり快適な方だし。
珍しく、ただ従うだけじゃなくて仲良くなれたし。
友達、なんてのは転々としている俺には関係ないもんだと思ってたが、いるといるで案外悪くない。
「……ね、ねぇ」
いや別に、抱きしめ返すのはいいんだが。
……ちょっと力強くないか?
「今の、ほんと?」
掠れた声とともに首にかかるジュプトルの吐息は、まるでかえんほうしゃ。
ジュプトルに回す手が感じ取る鼓動は、どんな攻撃よりも力強い。
「……? うん。ほんとだよ」
答えると、ジュプトルが首筋に顔を押し付けてきた。
そんなに辛かったならもっと早く——
「…………すき。僕も、好きだよ……ずっと、一緒にいてほしい」
——ずっと?
優しい熱で温かくなっていた俺の心が、一瞬で凍りついた。
ずっとというのは、要するに、番い。
群れを作らないポケモンたちがより自分と相手の身を安全にするために行動をともにする、永遠の誓い。
「ずっと」なんて、この他にはない。
「もう、誰にも離れてほしくない……っ」
番い? 俺が? なんの話だ?
散々それをチラつかせて騙してきた、俺が。
身体中に心から発生した暗雲が巡って、ジュプトルを抱きしめる腕がこわばる。
「……ジャノビー?」
「離れてッ……!!」
ジュプトルを全力で押しのける。
ジュプトルが倒れるところすら確認しないで、俺はいい加減慣れ親しんでしまった住処から飛び降りた。
どこへ向かっているかはわからない。
水浴びをした川も超えて、いよいよ未知の場所だ。
ただひたすら、遠ざかるように全速力で走る。
こんなことは初めてだった。
こんな俺でも、騙したまま番いの話を持ち込まれることだけは申し訳なく感じていた。
他のポケモンの時は番いの話が出そうな雰囲気を見計らって逃げ出すようにしていたのだ。
それが転々と色々なところをうろついていた理由だった。
文字通り騙し騙し生活しているくせに、なぜか変にそういうところは律儀にしていた。
だから、今回も突き放した?
俺の最後の一線を守るために?
……俺は、何一つ最後の一線だなんて考えてなんかいなかった。
今までと違って予期せずそんなことを言われて、慌てただけ。
逆鱗を発動した後みたいに、不随意にジュプトルを押しのけて、あげく飛び出した。
未だに背中にジュプトルの腕の感触と熱が残っていて、どんなに速く風を切っても拭えない。
心地いいと感じていたその熱が、今は氷の海で転覆した心を押さえつける重荷に変わっていた。
走り続けたせいか、俺は頭が冷え始めていた。
何をしてるんだ、俺は。
母親がいなくなってしまったのがやっぱりショックなんだろう、とわかっていながら、突き飛ばして失踪して。
よりにもよって一番傷つくであろう行動だ。
『ずっと、一緒にいてほしい』
ジュプトルの言葉がいつまでも耳に残って俺を責め立てる。
何が「問題がない間はいてやってもいいだろう」だ。
すぐ後に俺の勝手な問題のせいで逃げ出すくせに。
何が「そんなに泣かないで。私はいるから」だ。
俺にも逃げられたせいで、ジュプトルはもっと泣いているだろうに。
そもそも、俺は何様のつもりで一緒にいてやる、だなんて思ったんだ。
『騙してるポケモンと一緒になんかいたくないよね』
ジュプトルの言葉が俺の心を今更締め付ける。
「——っつ!?」
前に出そうとした足が何かに引っ張られた。
前に進もうとしていた俺の体は、地面に引きつけられて倒れた。
振り返るとあったのは、ただの木の根っこ。
いつもだったらつまずく程度が関の山なのに。
起き上がると今更のようにえりが痛んで、生ぬるいものが体を伝った。
転んだ時に盛大に擦りむいたらしい。
つるのむちで拭っても拭っても血は止まらない。
血が止まるまでは一旦休まざるを得ない。
草むらの陰に潜もうと一歩二歩歩く間に、垂れて地面に落ちたのは、血だけじゃない気がした。
運良く近くに生えていたばんのうごなの元の葉っぱを傷口にあてがって、俺はしばらく草むらの陰に隠れていた。
血も流石に止まってきたみたいだ。
そろそろ出ようか、そう思った俺の目の前を声が突き抜けていった。
「ジャノビー!! どこ!?」
背筋が凍って動けなくなる。
なぜ、ジュプトルがここにいる?
水が苦手って言ってたから、川を越えればもう来ないだろうと思ったのに。
俺はそこまでして追う価値のあるポケモンじゃないのに。
声はまだ遠いが、確実にこっちに向かってきていた。
「ジャノビー!! 出て、きてよ……っ!!!」
湿った声を張り上げて、ひたすら俺を呼んでいる。
出ていけば、最悪弁明くらいはできるかもしれない。
「なんで! なんで……」
俺の足は、草結びされたみたいに動かない。
出て行く勇気は体の隅々に散り散りに散らばって集まらない。
一緒にいると言った相手が唐突に手のひらを返して飛び出していった、なんて理解しがたい状況のはずなのに、健気にもジュプトルは叫び続ける。
「僕、謝るから! ダメだったこと全部、謝るから! だから……」
転覆した心が、裏返しのままチクチクと針に押し付けられる。
それでも、散り散りなった勇気のかけらは集まらなかった。
ジュプトルの声が、だいぶ近い。
「……ここら辺のはずなのに」
一気にボリュームの下がった声も、聞き取れてしまう。
「やっぱり、性別同じなのに、♀どうしなのに、嫌だよね。僕だってわかってたけど、わからない」
そうだ。そうだった。
俺は今まで大事なことに気づいていなかった。
勝手に♂と♀とで番い、だなんて連想していたが、実際はそんなことにとどまっていなかった。
♀同士だと思っててそれでも「ずっと一緒にいたい」って言ったんだ。
♂だの♀だのじゃなくて、俺といるために。
でも、だったら尚更俺なんかと一緒にいちゃいけない。
騙して食べたきのみでできているこんなポケモンなんかと、いちゃいけない。
「……また、1匹で暮らすしかないよね」
草むらをかき分けて、外の様子を見た。
腕を落とし、うなだれて歩くジュプトルの背。
その感情の渦を見て、俺は草むらから飛び出した。
「——ジュプトル!」
ジュプトルが弾かれるようにこっちを見た。
走り寄ってくる。
……なんで、飛び出たんだ。
出ないほうがいいと、俺とはもう関わらないほうがいいと決めたはずだったのに。
いつもいつも、逆のことばかりしてしまう。
もう、今更もう一度逃げ隠れるわけにはいかない。
せめてちゃんと本当のことを言おう。
腹はくくった。
「ジャノビー! よかった……!!」
抱きつかんばかりの勢いで俺に近づいてくるジュプトルを、手で制止する。
「…………。……あのさ」
「…………どう、したの」
「俺は——」
自分1匹じゃない状況で初めて口にした、本当の一人称。
「俺…………」
「俺は、♂だ」
「……ぇ」
制止してなお俺に近づこうとするジュプトルの足が、生気を失ったみたいに固まった。
その目が見開いていくのが、時間の流れが変わったみたいにゆっくりと見えた。
「俺は。最初からわざと騙してたんだ。住処と食いもんをもらうために。自分の力じゃなく楽に生きようとして。今までだってずっとこうしてきた。騙した食べ物を食べて、体を汚して生きてきた。お前は俺のカモにされてたんだ。俺が楽をして生きるために。俺は一回も自分1匹だけで生きたことなんてない。自分と本気で向き合ったことなんて、あるわけない。他のポケモンに頼ってばっかりで、他のポケモンを傷つけて生活してきたんだ。俺は、そんな汚れたやつなんだ……ッ!!」
一息の早口で言い切って。
俺はきびすを返して俺は草むらの中に紛れて走る。
ジュプトルからの非難の目線を受けたくなかった。
今までだったら、誰に害が出ようが、自分の迷惑にならなければ気にしていなかったのに。
(腹くくってたら逃げ出さねえよ!!)
真実を話す腹はくくった、そう決意したはずなのに、逃げる足が止まらない。
脳裏に映るジュプトルにせきたてられるように走る。
俺は、ウォーグルに食べられそうになった時以来の全力で走った。
心はとっくに闇に捕食されてしまっていて。振り払おうと草むらの中をひたすらつっきった。
走り続けるうちに、広大だった森ももう端まで来ていた。
空は燃えさかる炎が消え去って、ただ冷え切った濃い青の海になっていた。
脚を止めて、振り返る。
木漏れ日ならぬ木漏れ月光で薄く照らされる森の中は、俺の周囲にはやっぱり誰もいなかった。
走りながら何回も振り向いて、その度に誰もいなかったんだから当然だ。
本当だったらここで座り込んでしまいたかった。
走りすぎたせいで全身が痛い。
走り続けた手も脚も、千切れそうだ。
近くの木について寄り掛かろうと手を触れた瞬間、また脳裏にジュプトルが蘇る。
「…………ッ」
まだだ。もう少し森から距離をとったほうがいい。
そんな、言いようもない焦りに襲われる。
また俺は走り出した。
体に当たる冷え込んだ風はこんなに冷たいのに、頭は一向に冷えなかった。
頭を空っぽにしたくて、空回り気味の脚をスカスカと動かす。
地面が脚に巻きつくような気がして、俺は脚を止めた。
さっきまで草原だったのが、足元は今一面に花が咲いていた。
月明かりにてらされる薄桃色の花弁が一面を埋め尽くしていた。
(ツキミソウ、だったか)
優しい月の光を浴びる花たちはそれなりに綺麗だとは思う。
しかし、弾けて消えてしまいそうな雰囲気をまとった花が群生している様子は、俺にはなんだか薄気味悪く思えた。
草原と違って走りにくいし、あんまり踏み潰したくないのもあるし、さっさと出よう。
背後に俺を駆り立てるジュプトルの亡霊がいるので来た道を戻ることはできない。
花畑を突っ切るしかない。
さささっ、としばらく花の海をかき分けて走る。
「……ぅ……ぇぇ……」
なにかが呻くような声。
俺は脚を止め、周囲を警戒する。
ゆっくりと声のする方へ向かう。
「うう、うぁ……ぇぇえん……」
呻き、ではなく泣き声。
正体は、1匹の小さなヒメグマだった。
ツキミソウの中に埋もれて、へたり込んで泣いている。
迷子だろうか。
こんな夜に?
「おい、どうしたんだ」
「ぅ……え?」
「なんでこんな夜に子供が1匹で。聞いてやるから、俺に話してみろよ」
俺もその場にしゃがんだ。
少し頭をかたむけて、ヒメグマと同じ高さで目線を合わせる。
「……あ、あのね。おかーさんが、おなかいたいの」
「それで、どうしてお前が今ここにいるんだ」
「お花のみつ……えいようがたっぷりだって。ぼく、あげようとおもったんだ」
「お母さんに花の蜜をあげようとしたのか。それで、どこにいるのかわからなくなったのか?」
「うん……あし、いたい。つかれた……」
しょんぼりとヒメグマは俯き加減で頷いた。
花の蜜を、ねぇ。
手ぶらできてどうやって持ってくつもりだったのか、なんて言うのは詮無いこと。
いい子供じゃねえか。
「どうしよう……」
話すため一旦泣き止んだのに、ヒメグマはまた今にも泣き出しそうな顔をし始めた。
「あー……わかった。俺が蜜集め手伝ってやるから泣くな」
「ほんと? おにーちゃん、ありがと!」
「あぁ。よしよし」
優しくヒメグマの頭を撫でてやると、ヒメグマは少し落ち着いたようで笑顔を見せた。
……おにーちゃん、ね。
初見で見抜いたのはこいつが初めてだな。
やっぱ口調か。姿が仔細には見えないこともあるだろうが。
それに、俺も俺で不思議だ。
さっきまでは素を出すのをあんなに恐れていたのに、子供相手だとこんなにもあっさりと出せてしまった。
ヒメグマの頭をただ撫でてやっているだけのはずなのに、追い立てられて波風立っていた俺の心は今や穏やか。
……わからんな。
「乗れ」
ヒメグマに背中を向けて、言う。
「え、でも……」
「歩き疲れたんだろうが。いいから乗れ」
「うん……」
少し怯えながらも、ヒメグマは俺の背中に体重を預けた。
つるのむちで軽く押さえて、ヒメグマを背負ったまま立ち上がる。
……案外、重いな。
「お前は、蜜を集めるものもなしにどうやって集めるつもりだったんだ?」
「……ぁ」
「ったくしゃーねーな。この辺にきのみないか?」
少し賭けになるが、葉っぱよりは使いやすい器の作り方がある。
「んと、あともうちょっと前にあるよ!」
「そうか、分かった」
言われた通りに花畑をひたすら前へ。
「……どこだ?」
「あっち!」
ヒメグマは進んできた方とは明後日の方向を指差した。
「……そうか」
全然前じゃねえ。
ツキミソウをなるべく踏まないように、かきわけて進んでいく。
「……お、あったな」
ツキミソウ地帯が終わって、まばらに木が生え始めた。
さて、きのみチェックの時間だ。
ラムのみ……はハズレ。オレンのみ……もハズレだな。
「……おっ、ウイのみあるじゃねえか!」
2個ほど失敬してっと。
「ねぇねぇ、いれものは?」
「作ってやるから待ってろ」
俺は両手に1つずつウイのみをもってある技を発動する。
きのみが光り始め、その輪郭がぼやける。
両手の光の球を合掌するように合わせて、形をイメージすれば。
「ほれよ」
ちょいとゴツゴツはしてるが、ちゃんとした岩の器だ。
「わぁ……! どーやってやったの!?」
「しぜんのめぐみ」
きのみをエネルギーに変える技。
ウイのみは岩タイプになるから器にできなくもないのだ。
「しぜんのめぐみ?」
「お前は覚えないから気にすんな」
「よくわかんない。おにーちゃんありがと!」
「おう」
「これでおかーさん。みつ食べられるよ!」
はしゃぐヒメグマの手にはたっぷり花の蜜が溜まった器。
「こぼすなよ。俺にかけたら承知しねえ」
「ご、ごめんなさい……」
少し脅してみたら、しょんぼりする声。
なんだか申し訳なくなった。
「器、貸してみな」
「? はい」
ヒメグマから岩の器を受け取って、マジカルリーフと草結びで蓋をしてやった。
「これでこぼれねえぞ」
「おにーちゃんありがと!」
ご機嫌良好なヒメグマは再びはしゃぎ始めた。
「はしゃぐのはいいけど、さっさとお母さん探さないといけねえじゃねえか」
「おかーさん……おかーさん、どこ?」
「知るか。だから探してやるんだろうが」
「ぼく、帰れる?」
「知らん……あー、帰れる! 絶対帰れるから! 泣くな、な?」
適当に返したものの、背後からぐすぐすと泣きそうな声が漏れ聞こえて、俺は訂正した。
「ほんと?」
「あぁ」
「よかった〜!」
なんとか泣かれずに済んだ。
背中で泣いて暴れられたら困るどころじゃないからな。
「さて、お前はどんなとこから来たんだ?」
「木がたくさんのとこ!」
曖昧な情報だが、多分森だろう。
月明かりで見えにくいものの、見渡して確認できる森はひとつだけ。
(戻るのは、ヒメグマのために仕方なくだ)
やむを得ない。俺は元来た方へと戻った。
全速力で突っ走った草原をゆっくりと抜け、森に差し掛かる。
森の入り口、木の下にひとつだけ大きな影があった。
「……あ!」
ヒメグマが声をあげた。
あれが親なのか?
もう少し近づくと、声も聞こえてきた。
「ヒメグマ〜? ヒメグマー! 聞こえたら返事しなさいねー!!」
「はーい!」
大きな影ことリングマがこちらを向いた。
すぐさまその巨体がこちらに向かって走り始める。
恐怖に一瞬体が勝手に逃げかけるが、親だったら攻撃はされるはずないと踏みとどまる。
「よかった、ヒメグマ……っ! あの、あなたは?」
「迷子になってたんで面倒見てました」
「うちの子を、ありがとうございます。ヒメグマ、あなたは夜までどこに行ってたの!?」
こんな夜まで子供が帰ってこなかったら心配も尽きなかっただろう。
体調が悪い、みたいな話だったがそれでもあんなダッシュを繰り出すのだ。親はすごい。
ヒメグマを下ろしてやった。
ヒメグマはおずおずと器を差し出す。
「これ……おかあさん、げんきになると思って」
「……? これは、花の蜜?」
「うん! えいようたっぷりって教えてもらったから!」
死ぬほど心配したからとて、子供の健気さには敵わない。
しばらくリングマは器を持ったまま言葉も出ない様子だった。
「…………もう、バカね。ありがとう……!」
俺が聞いた中で世界一優しい「バカ」だった。
俺は全く関係なくて、この場においては空気も同然なのに、それでもなおそう思った。
「うん!」
「でも! 一人でこんな遠くまで来ちゃいけないのは言ってあったわよね?」
「ご、ごめんなさい……もう、しない……」
しつけはまた別件、と。このリングマは、いい母親なんだろう。
ぐすぐすとまた泣き始めたヒメグマも、いいポケモンになりそうな、そんな気がする。
「よし。……本当にありがとうございます。うちの子、すぐ泣くから大変だったでしょう?」
「あー、まぁ泣いてはいましたけど。そこまで厄介ではないですから。……俺も、暇でしたし」
「そうですか。助かりました。あなたがいてくれなかったら、今頃どうなっていたか……。お名前、お聞きしてもいいですか?」
名前。
つまりは俺の情報。
「いえ。俺の名前なんか聞くに値しませんよ。忘れてください」
俺の名前なんか知ったって、ロクなことはない。
俺が今までロクなことしてこなかったんだから。
食い下がられても困るので、俺はさっさとその場を立ち去った。
「あ……その、ありがとうございました!」
リングマの声を背中で受けながら、走った。
……俺は何をやっているんだろうな。
子供1匹助けて、何を。
別に悪いことをしたとは思っていない。
だから後悔、とかではないんだが。
散々悪いことをしてきて、今更。
焼け石に水、というか。
そんな気分になった。
ジュプトルをあんな風に傷つけて逃げて、向き合おうと決めた自分からも逃げた、俺がな。
柄にもなく撫でてみたりなんかして。
——それで贖罪のつもりか。
ジュプトルがやるように振る舞ったって、ジュプトルには何も返らない。
それに、もやもやはもういくつか。
散々今まで詐って塗り重ねて作り上げていた仮面を、俺は今回つけなかった。
そりゃ仮面はすり寄るためのもので、ヒメグマにはすり寄っていないから当然なんだが。
おにーちゃん、とヒメグマに呼ばれた時、あるべき違和感はなかった。
それもそうだし、その時は何も思わなかったものの……なんでジュプトルの話を考えた?
仮面をつけるたび、俺は罪悪感に苛まれて、それでも俺は仮面に隠し続けて。
仮面をつけているのが普通のはずなのに、仮面の下を見られても違和感がない。
……俺は、仮面を取りたい。
そうだ。俺は、仮面を取りたい、んだ。
次は。次は、詐らない。
ジュプトルのことは申し訳ないが、仕方ない。もう、終わってしまったことだから……。
もう、巡り会うこともないだろうしな。
「……あ?」
俺自身何を考えたかったのかわからない、まとまらない思考の沼をもがきながらさまよい歩いていて、ふと気づく。
ここは、どこだろう。
ただの草原だ。それ自体はなにかあるわけでもない。
でも、俺はツキミソウのあるあの花畑へ戻ったつもりだったのだが。
どこをどう間違えたんだ。
「はは、俺も迷子じゃねえか……」
思わず、苦笑い。
さっき助けたヒメグマと同じ状況に俺が陥るとは夢にも思わなかった。
もっとも、俺は適当にその辺で過ごせばいい。
ヒメグマと違って帰る場所があるわけでも——
「ジャノビー……っ!」
背後から、幻聴が聞こえた。
今更俺なんかについてきているはずのない声。
振り向く。
そこにいたのは、幻でも亡霊でもなくて。
「ジャノビーっ!!」
そんなに距離が遠いわけでもないのに、ジュプトルは力の限り俺に叫ぶ。
「……何しに来た。裏切られたから、殴りにでも?」
我ながら、誰も寄り付かないような嫌な声だった。
ジュプトルは一度だけゆっくり首を横に振った。
「違うよ。ジャノビーと、話に来たの」
一歩。また一歩。
ジュプトルが俺に近づいてくる。
同じ速度で、俺もじりじりと後退する。
「俺なんかと何を話すっていうんだ」
「たくさんあるよ!」
「……最後の話くらいは聞いてやる」
ぴたっとジュプトルの動きが止まった。
「ジャノビーは、優しいよね」
「俺がお前に何をしたか、聞いてなかったのか?」
どう勘違いしたら俺が優しいなんて結論に至るんだ。
「迷子のヒメグマの面倒見てた」
「……見てたのか」
跡をつけていたのか。
ジュプトルはいないと、何度も確認したはずなのに、どうやって?
「撫でてあげてた」
「……あれは」
「リングマさんのところまで連れてってあげてた」
「……ジュプトルならそうするだろうなと思って」
言い訳しようとして、とっさに浮かんだ言葉をそのまま口にする。
が、そのせいで意味がわからない言い訳だ。
なんでここで全く関係ないジュプトルが出てくるんだよ。
「僕……?」
「なんでもねぇ。なんも関係ねぇから」
「僕だったら迷子を助けそうだって思ってくれてたの?」
「知るか」
ジュプトルはふふ、と小さく笑って、また俺に近づき始めた。
「ジュプトルは、あまのじゃくだよね」
「あ? まぁ特性はな」
「違うよ。優しいのに、優しいって言わないとこ」
「はぁ?」
俺は、優しくなんかない。
それを信じないお前がおかしいだけだ。
黒いモヤモヤが俺を包んで、チクチクと刺し続ける。
その見えない黒い霧が俺に入り込んで、俺をたまらなく焦燥させる。
「それに、ずっと嘘ついてたって言ってたけど、そんなことないでしょ。夕焼け見た時とか、ゴスのみ食べた時とか、あと追いかけっこした時とか。他にも、たくさん。毎日優しいって思ってた。嘘ついてる顔じゃなかったよ。僕が♀だって分かった時に抱きしめてくれたのだって……嘘でも、優しいよ。嘘の方でも優しいなら、ほんとはもっと優しいと思う」
「……俺は優しくなんかない。俺の都合で、勝手にお前を振り回すようなポケモンなんだ」
ありえない。許されていいはずない。
俺は首を横に振って、否び続ける。
「……もう知ってると思うけど、僕、後付けてたんだ。ジャノビーはもう僕と会いたくないかもしれないのに」
「何が、言いたい」
言葉に詰まって聞き返す。
ジュプトルははっきりとした声で言い切った。
「僕も、自分勝手だから」
「…………」
「これからもずっと一緒にいてほしくて、追いかけてたんだ。勝手にだよ。しかも、木の上で、見つからないようにして……ごめんね」
「……………………」
「♂だって聞いた時、ジャノビーは決心して打ち明けてくれたはずなのに、僕は……♂でちょうどよかった、なんて思っちゃった。僕も、自分勝手。だから、おあいこじゃダメかな」
「……俺は、」
「僕、やっぱりジャノビーのこと好きだよ。ほんとのジャノビーのこと聞いても。だから、どうか……一緒に、いてください」
頭が真っ白になって、言葉が紡がれない。
心の中がその言葉で全て埋め尽くされてしまったみたいに、息ができなくなる。
畏れにも似た、でも決定的に違う何かが混ざった、そんなぐしゃぐしゃの塊が俺の中で跳ね回る。
「俺は……を、許して、くれるのか?」
混乱のせいでまともな文章も作れない。
ただただ、信じられなかった。
ジュプトルは、騙して俺が楽をする駒にさせられたはずなのに。
俺が最低のことにジュプトルを利用したはずなのに。
「許す。許すよ! ジャノビー……っ!」
ジュプトルが俺へ向かって走り寄る。
俺はもう後退しなかった。
走る勢いそのままにジュプトルに抱きつかれて、よろける。
「あ、あぁっ!?」
呆けていたからとっさにバランスが取れなくて、俺たちは揃って草原に倒れこんだ。
手だけはジュプトルに繋がれたままだった。
ふふ、あはははは!
ジュプトルは1人笑い出す。
不思議と騒がしくは感じない笑い声を聞きながら、色が薄まりつつある空をぼーっと眺める。
「ふ、ふふふ……。じゃあ、僕が勝手に一緒にいてほしいって思ったことは、許してくれる?」
「あぁ。許すよ」
ジュプトルの声を聞くたびに、心の中のぐしゃぐしゃがバネブーのようにぽよよんと跳ね続ける。
でも、もう俺は黒い霧を払おうともがかなくてもよくなった。
ジュプトルが払ってくれたのだろうか。
俺が今までつき続けてきた嘘は、無駄じゃなかったのかもしれない。
散々悩んできた自分の今までの暮らしにさえそう思えてしまうほどに、晴れ晴れとした気分。
横に倒れたジュプトルをちらっと見る。
ジュプトルの後ろの空は、もう夜の色が消えて鮮やかな薄紫に染まっていた。
「……あ、赤くなってきた」
いわゆる、朝焼けというやつだ。
淡く静かに燃える空は、ジュプトルと会った日に見た夕焼けよりもずっと綺麗だった。
夕焼けは、太陽が沈む直前。これから夜になるための最後の輝き。
朝焼けは、太陽が生まれる前兆。新しい日が始まる生命の輝き。
「ほんとだ。綺麗だね!」
ちらりと空を見て、すぐさまジュプトルは俺に視線を戻す。
そして、ニッコリと、最大級の花笑みを見せた。
一面咲き誇る花畑よりも綺麗な笑顔。例えるなら、まさに。
(まさに、ブルームシャインエクストラ)
完