ほうこうレポート

ほうようポケモン、こうもりポケモン。

【SS】笑顔、下手ね

注:このSSは別の場所にかつて掲げたSSを整えたものです。


*******************

どんよりとした黒雲が急速に青空を食い尽くしていくのをひたすら眺めていた。

黒雲にも雨を降らす雲とそうでない雲があるが、これは雨を降らす方だ。

岩で覆われた俺の身体は水気になかなか敏感で、これから雨が降るかどうかがすぐにわかってしまう。

ぽつりと前に伸ばしてあった手に水が一滴。

かと思えば一瞬で辺り一帯に水の音が満ちた。

住居である洞窟から手を伸ばしていただけの俺は手より先が濡れることはなかった。

岩の体は水気を吸うとかなり重くなる。

奥に戻ろうかと手を下ろしてふと気づく。

視界の左端に、岩壁とは違う色が映った。

3匹のヤヤコマだ。

濡れてしまった体をブルブルと震わせている。

しかし、その震えは水気を飛ばしても終わらなかった。

まるで何かいけないものを見るように、ヤヤコマたちがゆっくりとこちらを見上げる。

「「「すっ、すみませんでしたっっっ!!!」」」

「あのっ、ば、バンギラスさん……すみませんっ……!」

「す、すぐに出て行きますから……!」

「――助けてぇぇぇ!!」

ヤヤコマたちは必死の形相で洞窟から出て行った。


俺はしばらくぼーっと突っ立っていた。

「やっぱり、こうなるんだよな」

雨が降ると、毎回のように起こることだった。

雨宿りのためにこの洞窟に立ち寄っては、俺を見てすぐさま逃げていく。

俺としてはすごんでいる気も全くないのにこうも避けられると少し傷ついた。

サナギラスから進化して以来ずっとこんな調子で少しは慣れもしたが。

「……はぁ」

のそのそと洞窟の奥へ戻る。

既に体が湿気を吸ったのか、立っているのが嫌なほどに体が重くなっていた。

思わず横たわると、ズシン……と重苦しい音が洞窟に響いた。

しっくりくる位置を探して尻尾を動かしていると、急に冷たいものが触れた。

「……んっ?」

冷たいモノに心当たりは全くなかった。

手をついて起き上がり、その正体を確認する。

(……グレイシア? こんなところに?)

もっと寒い地方に住むため、この辺では見かけないポケモンだ。

口元から白い吐息が漏れていて、規則正しい寝息を立てているのがわかった。

透き通るような水色の身体は、灰色一色の洞窟には不釣りあいだった。


「……おい」

別に縄張りがどうだなんて言うつもりはないが、突然人の寝ぐらに入ってきて寝ているポケモンを放置するわけにもいかない。

驚いたのか、グレイシアの体がびくんと揺れる。


「…………ぅ……」

漏らした声は苦しげに聞こえる。

「おい、大丈夫か」

「……ぅ……」

ゆっくりとまぶたが上がっていって、深い青の瞳が俺を捉えた。

「……さい」

「……あ?」

「うる、さい」

あまりにもい唐突な言葉だった。

なんと返せばいいのか俺には分からなかった。

グレイシアはすくりと起き上がった。


「寝かしておいてくれてもいいじゃない」

「……こんなところでか」

「雨の中寝ろっていうの?」

「自分のねぐらに別のポケモンがいたら声くらいかけるだろ」

「べつに攻撃する気なんかないわよ」

……このままこの話を続けても、あまり実りがない気がした。

「まぁいい。それよりも、なんでこんなところにいるんだ?」

「なによ、いちゃダメだって言うの?」

「いや、構わんがグレイシアなんてこの辺じゃ見かけないからな」

「そんなの今ここにいる私には関係ないじゃない」

そう言われれば確かにそうかもしれないが。

このグレイシアは色々と不思議な点が多い。

この辺じゃ見かけない珍しいポケモンで。

いつここに入ってきたのかも分からない。

それに――俺から逃げない。

「なぁ」

「なによ」

「……俺から、逃げないのか?」

「なんでわたしが野生のポケモンなんかから逃げないと――」

ふらっとグレイシアの体がよろめく。

華奢な身体は二度三度左右に振れて、地面に倒れた。


突然倒れたのはもちろんだが、もう1つ驚く理由があった。

腹部分に刻まれた、深く真っ赤な傷。

先ほどまでは見る位置が高くて見えていなかったが、倒れたことで露わになったのだ。

まだ負ってからそう時間は経っていないように見える、痛々しい生傷。

俺はすぐさま洞窟の奥へと走った。

奥にはきのみを積んだ山が氷付けになっている。

その氷を俺は尻尾でなぎ払って粉砕した。

凍ったきのみと氷の破片がが辺りに散らばる。

崩した山をかき分けていくと、一番下に、目的のものはあった。

ふっかつそう。

傷ができたときはこいつをすりつぶして塗ると治りが早い。

体調が悪くなればそのまま食べるし、便利な葉っぱなのだ。

「……足りねぇか」

この前のバトルの傷を癒やしてから、取りに行くのを忘れていた。

どうしたものかと考えて洞窟の外を見る。

止む気配を全く感じさせない土砂降り。

それから、視線がグレイシアに移った。

「……チッ」

舌打ちが一つ洞窟に反響する。

ふっかつそうをグレイシアの上に掛けつつ、俺は豪雨の中に飛び出した。


ひどく息切れしながらも、なんとか洞窟に帰ってきた。

体はビシャビシャに濡れて水を完全に吸い込んでいて、一歩一歩が脚を軋ませる。

グレイシアの様子を確認すると、グレイシアは出た時から一歩も動いていなかった。

尻尾すら微動だにしないことに一瞬嫌な予感がしたが、幸いにも息づかいは安定していた。

グレイシアの隣に座って、口に冷気を構えた。

俺とグレイシアのちょうど間の地面にれいとうビームを発射する。

発射する位置を調整して氷を重ねていくと、ヤバチャのような入れ物ができた。

氷の入れ物にふっかつそうを入れて、手で丁寧にすり潰す。

すりつぶしたうちの半分を手ですくって、グレイシアの傷に直接塗りつける。

痛みはするだろうが許してほしい。

傷を塞ぐように一通り塗ると、俺はふっかつそうが残った入れ物を手に外へ出た。

入れ物を高くかざすと、雨粒が氷を打つきれいな音が響いた。

しばらくして入れ物を見ると、深緑のふっかつそうは雨水に薄められて飲めるような液体になっていた。

飲めば回復も少しは早くなるだろう。

グレイシアはまだ起きない。

寝ているポケモンに液体は飲ませられないし、それだけのためにわざわざ意識を呼び戻すのも気が引ける。

一旦入れ物はグレイシアの近くに置いて、俺は一息ついた。

やっとやることがひと段落すると、再び体に染みた水分がずっしりと俺の体に負荷をかける。

空模様は、やはりあまり良くない。間断なく降る雨を一瞥し、それからグレイシアから少し離れた。

道中で見つけたたくさんの枝を、どさっと床にぶちまける。

大きく息を吸い込んで、弱く炎をを放つ。

炎が枝の山を一飲みにすると濡れた木の枝が乾き始め、やがて火がついた。

この火に当たれば少しは身体も乾くだろう。


改めて座り込むと、水がしみこんで増えた身体の重さがずっしりとのしかかってきた。

それに、重いのは身体だけではなかった。

ふっかつそうはこの辺りには繁茂していないため、すぐに手に入れるとなれば他のポケモンに頼み込むしかない。

大半は俺から逃げて行って話すらしてくれず、やっと話してくれたと思ったらただ単に恐喝と勘違いしたらしかった。

今大事なのはふっかつそうなのでとりあえずその勘違いに乗らせてもらうことになったが、ハハコモリ夫妻には申し訳ないことをした。

ため息をつきながら、冷たくなった尻尾を火にかざす。

ゆっくりと熱が沁みこんで、吸った水分を追い出していく。

生き返るような心地のいい感覚にしばらく浸った。


後ろから、呻くような声がした。

振り向くとグレイシアが立ち上がっていた。

「痛ぃ……」

反響する洞窟の中では、小さな呟きもはっきり聞き取れた、

「痛むのか。大丈夫か?」

「べ、別に。大したことなんて……」

引き攣る表情を隠すようにグレイシアが顔を俯ける。

炎の温かい光がグレイシアを照らした。

なにも喋ろうとしないグレイシアに、声をかけあぐねる俺。

洞窟内は木が燃える音と雨音だけで満たされた。

「もう起きたのか」

「これはなに?」

「「……あ」」

二匹の声が完璧に被った。

「「…………」」

お互いがお互いの出端をくじいてしまって余計に喋りづらくなる。

「……ふっかつそう。薄めてあるから飲め」

グレイシアは俺とふっかつそうの入った入れ物とに幾度か視線を往復させた。

「悪いモンは入ってねえよ」

飲んでいいものか疑っているように見えて伝えたが、グレイシアはなおも不思議そうな顔をしている。

「これ、わざわざ採ってきたの?」

「……別にどこにも行ってねえよ。たまたま手元にあっただけだ」

別に俺は感謝されたくてこんなことをしたわけではない。

倒れてるポケモンがいれば治療してやるのはそうおかしなことでもないだろう。

わざわざ言うのも性に合わないし、グレイシアが知る必要もない。

「でも、体が濡れてるわ。炎に当たっているのも、体を温めるためでしょう?」

「雨水で薄めたんだ。そのときに濡れただけだ」

「でも……」

食い下がるグレイシア。

「いいから、飲め。さっきも言ったが悪いものなんて入れてねえ」

俺は強引に話を終わらせた。

グレイシアに背を向け、再び火にあたる。

しばらくしてかたりと氷の入れ物が動く音が背中越しに聞こえた。

規則的な水音と不規則な水音が入り交じって聞こえた。


飲み終えたのだろうか、聞こえる音がまた雨と炎の音だけになった。

またなにか声をかけた方がいいだろうか。

「…………あ、ありがとう……」

燃え盛る炎にかき消されるようなか弱い声だったが、なんとか聞き取ることができた。

「あぁ」

ふと気づけば、視界の端でグレイシアが洞窟の入り口へ歩き始めていた。

「迷惑かけてごめんなさいね」

こちらを見向きもせずにすたすたと歩いて行くグレイシアを見て、反射的に声が出た。

「おい!」

グレイシアの足が止まった。

また怖がらせてしまっただろうか。

なるべく声を抑えなければ。

「そんなフラフラの状態で、こんな雨の中どこに行くつもりだ」

「別に大丈夫。ここに来たときと同じ」

「治してやったのにその辺で倒れられても胸くそ悪いんだよ。雨に流されちゃ塗ってやったふっかつそうももったいない」

「それはそうだけれど……」

「しばらく休んでいけばいいだろう。取って食う気もない」

グレイシアの威嚇するような表情に、次第に困惑の色が混じり始めていた。

「……わ、分かったわ。そこまで言うなら……まだいることにする」


気づけば身体中に力が入っていた。

息をついて力を抜く。

「あぁ。好きなだけ休ん……っつ!?」

突如尻尾を襲う熱感。

思わず尻尾を勢いよく振った。

赤熱した尻尾が視界に入ってきて、火に尻尾を突っ込んでしまったんだと察する。

……油断したな。

かなり奥から突っ込んでしまったようで、尻尾の付け根の部分からじんじんと痛みが伝わってくる。

根元の方では冷凍ビームで冷やすこともできなそうだ。

「とりあえずチーゴのみか」

バトルを挑まれれば火傷することも少なくないから、火傷に効くきのみはちゃんと持っていたはずだ。

きのみを取ってある場所まで向かおうとすると、背後からの声に呼び止められた。

「待って」

「あ? どうした」

「いらないわ」

「いらない?」

フラフラとまた安定しない足取りで、グレイシアが俺に近寄ってくる。

「じっとしていて」

今度は強い冷感が尻尾の付け根を包んだ。

グレイシアのれいとうビームだ。

「これでどう? 氷、薄くしてあるから動かすと割れちゃうかもしれないけれど」

痛みを伴う熱さは、もう引いていた。

「……ありがとう」

「別に、さっきのお礼よ。他意はないわ」

そう言うと、グレイシアはさっさと壁に寄りかかって横たわってしまった。

「…………」

尻尾は動かしてはいけないらしいので、様子を見ることはできない。

冷凍ビームを発動して炎を消し、俺も壁に寄りかかって座り込んだ。

疲れがどっしりと身体中ににのしかかってくる。

身体の力を抜くと、疲れが少しずつ壁に吸い込まれていく気がした。

まぶたも重くなるのに抵抗せず、微睡みの中に身を投じた。


「……ぬあっ!?」

突如、鼻先に冷気が咲いた。

冷たさという膨大な量の信号が脳に送られ、洪水を起こす。

矢も盾もたまらず飛び起きた俺が見たのは……。

咲き誇る青薔薇だった。

鼻先に、薔薇をかたどった氷の像が完成していたのである。

犯人など考えるまでもない。

「……どういうつもりだ?」

「お腹が減ったわ」

「ハァ?」

俺の問いに返ってきたのは、全く関係ない自分の要望。

訳が分からない。


「だから、お腹が空いたの。きのみは甘いのがいいわ」

「……それと俺の鼻に氷の花が咲いているのとなんの関係がある」

「あら、ダジャレかしら。私の吹雪よりも寒いわ。面白くないからやめた方はいいわよ」

ダジャレじゃねえよ……とこのままツッコむと一向に話が進まなくなる気がしたので我慢した。

俺がため息をつくと、グレイシアは小馬鹿にしたような笑みを一転して不満げな表情に変えた。

「……だってあなた、呼んでも起きないんだもの」

「だからってこれはやり過ぎってもんだろう」

「それは最終手段だったの。あなたの尻尾を飾りつけしても起きなかった時のね」

言われて俺は尻尾を目の前に持ってきた。

寝る前に尻尾を包んでいた氷がさらに厚くなり、ハートだの星だのイラつくくらい模様で埋め尽くされていた。

「可愛いでしょう? 感謝してくれてもいいの」

「誰が感謝なんかするか。……この薔薇は正直上手だとは思ったがな」

鼻から氷を潰さないようにゆっくり取って、手の上で転がす。


途中でくっついたりすることもなく何重にも花弁が重なったそれは、一種の芸術だ。

「そう? ありがとう。それで、食べ物はまだかしら?」

なんという図々しさだろうか。

いや、言っていることはそうでもないのか。

それを引き止めたのは俺で、しかもグレイシアはきのみがどこにあるかなんて知りようもない上、そもそも動いていいのかすら分からないければ、必然的に俺が動かなくてはならない。

……と、理屈では分かっているのだが、もう少し言い方なんかをどうにかできないものなのか。

「……持ってきてやるよ。何が良い? 食えるのならだいたいは揃ってる」

「んー……そうね、焼いたマゴのみかしら」

「焼くのか?」

「そうだけれど? 甘みが増して美味しいの」

そんな話を聞いて、ふと疑問が浮かぶ。

「……なんで氷タイプなのに焼くと美味しい、なんて知ってるんだ?」


ピキッ、と。

グレイシアの表情がひび割れて固まった。

なんの前触れもなく場に沈黙が横たわる。

「「……………………」」

居づらい空気が肌を逆撫でる。

こういう時は……どう話せばいいのだろう。

あまり他のポケモンとの会話をしたことのない俺にはよく分からない。

「……聞いちゃダメだったか?」

「…………別に。兄弟にブースターがいただけよ」

と、口では言うものの、放つオーラは変化しない。

「…………まぁ、なんでもいい。マゴのみだな?」

「……えぇ」

結局、俺はきのみを取りに行くことを口実に洞窟の奥へ逃げることしかできなかった。


洞窟の奥まで行くとまず木に炎を付けて、光源を確保した。

暗闇から浮かび上がったその光景を見て、俺は唖然とした。

丁寧に凍らせてあったはずのきのみが、辺り一面に散らばっていたのだ。

一瞬、ディグダあたりがここを掘り当ててしまったのか、なんて考えて気づいた。

犯人は俺だった。

そういえば、焦ってふっかつそうを探したあとロクに片付けもせず洞窟を出てしまったのだった。

「…………」

割りつつ探したため氷はバラバラな上ほとんど溶けている。

まずは片付けからやらなければならないようだ。

今から食べる分のマゴのみとマトマのみを横に置いておき、残りのきのみをかき集める。

ただそれだけ……なのだが、基本的にきのみは俺の手よりもずっと小さい上、俺の力が強すぎるのか迂闊にずさんな扱いをすると潰れてしまうため、とても面倒臭い。

ただただこんな作業をしていると、やはり無心にというわけにもいかず。

自然と考えてしまうのはさっきのグレイシアの態度だった。


本当にただ兄弟がいただけなら、あんな苦虫を噛み潰したようなような顔をするだろうか。

最初に怪我していたことといい、謎が多い。

別に話したくないなら無理に聞こうとは思わないが、どうも少し気になった。

「…………あっ」

手元でプチっと音がした。

見れば、手が真っ青に染まっていた。

手の下には潰れたブリーのみが地面にくっついている。

「……もったいねぇ」

下手に考え事の方に没入してしまったせいで、手の方がおろそかになってしまったらしい。

自分が悪いのだから仕方がない、とすっぱり諦めて、他のきのみを前に作った山へと重ねる。

――プチっ。

手のひらを確認すると、さっき付着した青に加えて緑色の果汁が合わさって、なんとも気持ち悪い色遣いになっていた。


今度は、リンドのみだ。

「……ごめんな」

食べもせずに潰してしまったのが申し訳なくて、俺は口の中で呟いた。

きのみはきのみであって、そこに意思なんて存在しない。

だからこんなことを思う必要もないのだが、なんというか、気分的な問題だ。

「何を独りで呟いているの?」

後ろから、風鈴のように涼やかな声が聞こえてくる。

グレイシアが、寝る前に比べるとしっかりした足取りでこちらに向かって来ていた。

「……! ……動いて大丈夫なのか?」

「少し痛むけれど、別に大丈夫よ」

「……ならいいが」


グレイシアから目を離し、俺はきのみを集める作業を再開した。

その様子をグレイシアは壁に寄りかかって見ているだけ。

「散らかってるわね」

「……あぁ。悪かったな」

「そっちの氷は、なに?」

「腐らないように冷凍保存してるわけだが」

すると、視界の端に映るグレイシアの眉間に少しシワが寄った。

「あなた、冷凍ビームでも覚えているの?」

一瞬俺の体が震えた。

「……そうだ」

冷凍ビームは、確かに便利な技だ。

重宝はしている。

だが、その理由についてはあまり思い出したくはなかった。


「……そう」

――プチっ。

また一つ潰してしまった。

モモンのみが潰れて、ピンクの汁が少しだけ手についている。

今日は、調子がおかしい。

「はぁ……」

ふふっ、と可愛らしく笑う声がした。

「……何がおかしい」

「ごめんなさい、嘲笑ってはいないわ……ふふふっ……」

弁解するグレイシアだったが、口の端は吊り上がり、笑い声が漏れていた。

「…………」

「あなた、不器用ね」

「俺が一番知ってる」


少しふてくされたような声が出た。

グレイシアは更にくすくすと笑う。

「私も手伝うわよ?」

「……頼む」

正直きのみが潰れるのに疲れてきたところなので、助かった。

ぽいぽい、ときのみがどんどん重なっていく。

慎重にやらなければいけなかった俺に比べて、とても早い。

瞬く間に片付けは終わってしまった。

「後は凍らせるだけね?」

「あぁ。ありがとう、助かった。…………っつ!」

きのみの山を凍らせようと冷凍ビームを構えていると、急に俺の足元が凍りついた。

もちろん俺のが暴発したわけではない。

「何をするんだ……」


「凍らせるなら私がやるに決まってるじゃない。私、氷タイプよ?」

足を凍らされたのが少し癪に触ったが、凍らせるなら氷タイプがいいのも事実。

ここは素直に頼んだ方がいいだろう。

「……分かった。これも頼む」

邪魔にならないように俺が後ろへ移動すると、グレイシアはすぐに冷気を形成した。

冷たい空気を当てられて、山は氷の中に閉じ込められていく。

これも、俺がやるよりずっと早かった。

「これでどう……きゃっ!?」

いきなり、視界がブラックアウトした。

「大丈夫か!?」

「えぇ。……ごめんなさいね」

どうやらグレイシアの冷気が炎にまで及んで、火が消えてしまったようだ。

暗闇の中、俺は冷静に指示を出した。


「一旦少し炎出す。それで俺の場所を確認して俺の下に避難してくれ」

「わ、分かったわ」

息を大きく吸い込み、出力最低で炎を空中に繰り出す。

目の前がボッ、と赤い光に埋め尽くされる。

目だけを移動させてグレイシアが移動したのを確認してから、俺は火が消えてしまった木へもう一度炎を放った。

ボッ、と音を立てて火が燃え移ると、辺りを照らすオレンジ色の光が復活する。

「……私もあまり器用ではないみたいね」

「いや、助かった。冷凍ビーム撃つと消耗するしな」

「……そう。なら、そこの食べる分の木の実を持って早く戻りましょう」

言うが早いが、マゴのみ二つを咥えてさっさとでていこうとするグレイシア。

しかし、その足が少し震えているのに俺は気づいてしまった。

「……悪いな」


「何がよ」

多分自分でも分かっているだろうに、誤魔化で発せられた問いを無視して俺は氷の一部を叩き割る。

キンっ! と鋭い音が空気を切り裂いた。

「な、何をしているの!?」

グレイシアからしてみればせっかく自分の作った氷を悪とは何事か、と思っているのだろうが。

俺はマトマのみを持っていない方の手で氷から出てきたきのみを持ち、グレイシアに見せた。

揺らめく炎に照らされるグレイシアの顔が、隠そうともせず露骨に嫌そうなものになった。

「…………ぅぇ」

「オボンのみは体力回復にいいだろう」

「でも……あの、味がいっぱい混ざっていてよく分からない味は好きになれないわ……」

余程食べたくないのか、嫌な思い出を頭から追い出すようにいやいやと首を振るグレイシア。


「体にいいものは美味しくないもんだろ」

「嫌いなものは嫌いなの。それより、早くそれを元に戻して凍らせなくちゃいけないでしょう?」

「……そうだな。…………って、戻しちゃダメだろう」

一瞬乗せられて戻しかけてしまった。

慌てて手を引き戻す。

「……本当に食べなくてはダメかしら」

なんとなく疲れてきたので会話に応じるのをやめ、俺はさっさと冷凍ビームで氷を元に戻した。

「…………まあ、いいわ。…………はぁ……」

あからさまに機嫌が悪いオーラを撒き散らすグレイシアを再び無視し、俺は洞窟奥を去った。


ただただ暗かった洞窟の先に、光が灯った。

それはどんどん大きくなって――

なんて、描写してはみるが結局気分はいつも過ごしている時と変わらなかった。

変わっているのは小さな足音が俺の足音の2倍して、足音の合計がいつもの3倍になっていることくらいだ。

お互いに特に喋ることもないので、こんな状況。

居辛さはバッチリ感じるのだが、怒りオーラに話しかけて更に怒りを増長させないような会話スキルが俺にあるわけでもない。

結局足音以外の音を聞かないまま、洞窟の入り口へとたどり着いた。

二人して座り込むと、淡いピンクのきのみが二つ、こちらへ飛んできた。

「じゃ、よろしくお願いするわ」

それだけ伝えて、グレイシアは自分の足の毛づくろいをし始めた。

声音に特に怒っているような色はない。

いつのまにか近づき難ったオーラも消えていて、グレイシアの表情からもあまり怒っていたことを気にしている様子はなかった。

過度に気にしていた自分がバカみたいだ。


気を取り直して、俺はグレイシアに背を向け、マゴのみを前に置く。

口に炎を生成し、出力を絞ってマゴのみを炎で炙る。

香ばしいような、甘いような、そんな気分の良くなる香りが洞窟に充満した。

数秒して表面に程よく焼き目がついたところで炎を引っ込め、俺はグレイシアの前に焼けた実を置いてやった。

「これでいいか?」

「えぇ! ……い、意外と上手じゃない」

美味しそうな香りにグレイシアは一瞬子供のように無邪気なリアクションを見せた。

しかし、その無邪気さが恥ずかしかったのだろうか。

取り繕うようにそっぽを向き、上ずり気味の声で付け足した。

「…………その前に」

座り込んでマトマのみを手から解放した俺は、もう一方の手をグレイシア目の前で開く。

「……うぅ……」

笑みを抑えきれていなかった嬉しそうな表情が、一瞬で苦いものに変わる。


「……なんでこんなもの食べないといけないのよ……」

「お前、まだ体力回復してないだろう」

「……確かに、そうね」

グレイシアはオボンのみを睨み、そんな様子を俺が眺める。

しばらくして、グレイシアの目線がオボンのみからこちらに移動した。

「……なんで、ここまで私に構ってくれるのよ」

ギクっ、と悪事を暴かれかけた悪人のような反応が勝手に出た。

「…………」

「…………」

アクアマリンのような透明感のある瞳が、まっすぐこちらを見つめる。

「……途中まで看てやったんなら最後までやり通したいだけだ。なんか文句あるか」

「……そう。なら、従っておかないと失礼かしら」

渋々、といった調子でグレイシアはオボンのみをかじり始めた。


相変わらず目線を動かさずグレイシアの様子を眺める俺の心には濃くもやがかかっていた。

理由は、今グレイシアにした説明くらいしかないだろう。

とっさに思いついたことを言ってその場はやり過ごせたが、どうもその理論は心の中でしっくりこないのだった。

しかし、別の理由は、と言われると全く覚えがない。

……というか、理由なんかないような気さえするのだ。

「………………………………」

「……ねぇ、食べないの?」

「ん? あ、あぁ……」

グレイシアに言われて俺ははっと我に返った。

どうやら、ずるずると思考の沼にはまってしまっていたようだ。

一旦思考を強制的に断ち切って、足元に置いておいたマトマのみを2つ同時に口へ放り込む。


噛んだ瞬間、スパイシーな香りが口を抜けて鼻腔を刺激する。

次いで口いっぱいに広がる辛味。口から火を吹くんじゃないかと思うほど、口内が熱くなる。

この、途方も無い辛さが俺は好きなのだ。

口の端の痛みをこらえて、3つ目のマトマのみを口に入れる。

「よくそんなにマトマのみをぽいぽい食べれるわね……」

「あ? あー、好きなんだからいいだろ」

「熱いものと辛いものは好きじゃないわ……」

見れば、グレイシアは焼けたばかりでまだ熱いマゴのみを必死に冷気で冷ましている最中なのだった。

「……そうか。味覚はそれぞれだからな」

それからは、しばらく咀嚼音のみが響く無言の時間が続いた。

正直居づらい空気ではあるのだが、話題がないので打開しようもない。


最後のマトマのみを飲みくだし、ちょうど完食したその時。

さっきまでザァァァ……、と絶え間なく音を立てていた雨が急激にその音を減らした。

ヒヤップをひっくり返して絞ったような雨が、アメタマの水遊び程度の小雨に変化したのだ。

突然の変貌に驚いて俺が外の様子を見ていると、グレイシアもその目線を追って外を見た。

「あ……止んできたわね」

「そう、だな」

空模様は小雨になるだけにとどまらず、ついには止んだ。

空を覆っていた雲が撤退していくと、空の裂け目から部分的に地上にも日光が注ぐ。

それはちょうど洞窟の入り口も通って俺たちの反対側の壁を焼いた。


「……あっ、虹が出てるわよ!」

グレイシアが嬉しそうな声音で伝えてくる。

グレイシアの目線を追っていくと、そこには。

紺に染まりつつある空に、鮮やかな七色のアーチがかかっていた。

分かれ際も含めてくっきりと色が出ていて、鳥ポケモンでなくとも上を歩けそうなほどだ。

「……ここまで綺麗なのは、珍しいな」

「えぇ。私も見たことがないわ」

しばらく、また沈黙の時間が発生する。

しかし、今回は居辛さなんて全く感じなかった。

思わず、二人して見入ってしまったからだ。

沈黙は、日が沈んで虹が消えるまで続いた。


「…………」

「…………」

虹があった部分を二度、三度見て、2次を探す。

やはり、もう無かった。

淡い喪失感になんとなく体がだるくなって、俺は壁に寄りかかった。

ズン……と鈍い音が洞窟に響く。

「あなた、いつもは夜何をしているの?」

「ん? もう寝るが」

俺としては至極当たり前のことを答えたつもりだった。

しかし、グレイシアは驚愕したような表情を作る。

「……早いわね。もう少し活動しないの?」

「活動って言ったってすることもないだろう。暗い中何をするって言うんだ?」


「散歩、とかだけれど?」

「……散歩?」

「えぇ。夜風が気持ちいいのよ」

「夜に出歩いたことなんてない俺には分からんな……」

会話も程々に、寝ようと寝転ぶ。

――すると、尻尾に冷たい吐息を当てられた。

「冷てっ!? 何するんだよ」

「散歩、行きましょ」

グレイシアを睨み付けるも、鋭い眼光で睨み返されて俺が一歩引く羽目に。

「……なんで夜に出歩かなきゃいけねえんだよ」

「メスポケモン、しかも怪我してるのに一人で歩かせるつもり?」


なんとも嫌な聞き方だ。

俺としては暗い中出歩くのはあまり好きではないのだが、かといって一人で歩かせるのは気が引ける、八方塞がり。

「行かないって選択肢はないのか」

「ないわね」

最後の希望もバッサリ切られ、俺は渋々立ち上がる。

「はぁ……行ってやるよ」

「あら、優しいのね」

せっかく行ってやると言ったのに飛んできたのは単なる皮肉。

せめてありがとうくらい言えないのか。

まぁ、無駄なトラブルになるのもなんだ。黙っておこう。

前をさっさか歩いていくグレイシアを、俺はゆっくりと追いかけた。


ただひたすら、歩くだけ。

何をするでもなく、風に揺れる木々や台風一過の澄み切った星空を眺めるのだ。

最初の方はそれなりに新鮮だったが、だんだんと飽きてきた俺の目線はだんだん下がっていき、俺の斜め横を俺の半分以下の高さで歩くグレイシアだった。

まだ治りきっていない生傷が痛々しい背中を上から眺めていて、ふとまだ聞いていないことを思い出す。

「……なぁ、聞いても良いか?」

「なにかしら?」

尋ねるとグレイシアは律儀に立ち止まって俺が横に並ぶのを待ってくれた。

「お前は、俺のこと怖いと思わないのか?」

くすりと笑う声がした。

「いちいちあなたくらいで怖がってなんかいられないわよ。さっきからヤミカラスやらコラッタやらがあなたを見て逃げ出していくのには気づいたけれど、私はそんな臆病ではないわ」

「……そうか」

不思議な気分だった。

何をどう言えばいいのかは分からないが、少なくとも悪い気分では断じてない。


少しスッキリしたような心持ちで特に見るところもなく遠くの空を見ていると、下から声がした。

「そんなことより、私も気になってたことがあるのよ」

「ん? なんだ」

相変わらず目線は前に固定したまま、グレイシアは俺に聞いた。

「あなたの周りには砂嵐、吹いてないのね」

「はぁ? 砂嵐?」

いきなり、訳の分からない単語が出てきた。

「そうよ。てっきりバンギラス一族はみんな周りに砂嵐吹かせてると思ってたのに、あなたはそれがないのよ」

「……なんだそれは。少なくとも俺は砂嵐がどんなのか知らないんだが」

「私もあんまりよくは分かっていないのだけれど。あれ、痛いのよね」

正直あまりよく分からなかったが、俺は何かが珍しいのだろうか。

「知らんが、そりゃ俺でラッキーだったな」

「ほんとね。砂嵐の中には流石にいられないもの」


ふともう一度空を見上げると、既に月がそれなりに高い位置まで昇っていた。

円に近い形をした物体は、周りに星々を従えて夜空を優しく照らしている。

「あら、そろそろ戻ったほうがいいのかしら」

「そうだな。ウロついてるゴースに構われないうちに戻ったほうがいい」

「あなたがいればゴースも構って来ないんじゃないかしら?」

軽口を叩きながらグレイシアはくるりとターンをし――

――そびれ、足をもつれさせて転んでしまった。

「大丈夫か!?」

「っ……ぅ……そんなに声出して、心配しなくても、大丈夫よ」

口ではそういうものの、立ち上がろうとする四肢は小刻みに震えていた。

表情も、かなり苦しげで、とても大丈夫には見えない。

さっきからずっと表情を俺に見せないようにしていたのは、これを悟られないようにするためなのだろうか。


「傷、痛むんだろ?」

「っ……痛いは、痛いのだけれど…………べ、別に、動けないほどではないわ……」

遂にグレイシアは立たずにその場に座り込んでしまった。

「……やっぱり大丈夫じゃないじゃねえか」

「少し、休むだけよ……」

グレイシアの表情は険しさを増し、息も荒い。

「…………これじゃ帰れねえだろうが」

はぁ、と一つため息をついて、俺は膝をついてしゃがみこんだ。

ズズン……と重そうな音が地面を這う。

そのまま腕を地面にぴったりとつける。

「……乗れ」

「……え?」


束の間苦しい表情すらも消え失せて、グレイシアが不思議そうな表情でこちらを見上げる。

せっかく腕を出してやってるというのに一向に動きを見せないグレイシアを俺は急かした。

「早くしろ。俺ももう帰りてえんだ」

「……でも」

グレイシアは目線を右往左往させて頑なに拒む。

そんなに他のポケモンに頼るのが嫌なのか。

もしくは、俺が嫌われているだけなのか。

「……別に俺なんかに運んでもらいたくないっていうなら良い。待ってやる」

「いえ、それこそ迷惑だし。…………じゃあ、お願いするわ」

やっとグレイシアが俺の腕の上に体を乗せた。

「あぁ……。少し揺れるが、勘弁してくれ」

きのみを片付ける時よりもずっと慎重に、なるべく傷を刺激しないように俺は腕を持ち上げた。


◇ ◇ ◇

高い。

いつもの2倍以上の高さから見る景色は、いつもよりもほんの少しだけ遠くまで見渡せた。

横に向けていた顔を、正面に戻す。

真下から見るバンギラスの顔は斜め下から見上げた時よりも線がなめらかな気がした。

「………………」

……はっ、と自分が呆けたようにバンギラスを見ていたことに気づいた。

「……どうした?」

少し身じろぎしたのが伝わってしまったのか、バンギラスがこちらを見た。

目がもろに合ってしまって、私は慌てて目を横の星空へずらす。

……冷静に考えれば、別に視線をずらす必要なんてなかったのに。

ずん、ずん、と規則的に重低音が揺れとなって地面を伝う音がこちらにも聞こえる。

しかし、その割には伝ってくるのは音だけで、振動なんて一切感じない。

普通は歩いていれば振動くらいあるだろうし、本人も揺れるぞと言っていたから、傷に少し響くのは覚悟していたのに。


スピードからして、ゆっくり歩いているのはすぐに分かった。

それに、私の体を持っているバンギラスの手は傷に触れないように、しかし私が力を抜いていても落ちそうにはならない絶妙な位置を保っている。

おかげで私が疲れることもない。

そんなことを考えながら、私がまたバンギラスを下から眺めていると。

「……さっきから、どうした。俺を見ても楽しくはないと思うぞ」

視線に気づかれてしまった。

慌てて視線をそらし、体を少し丸め、バンギラスの方を向く。

「……い、いえ、なんでもないの」

「なんでも良いが、せっかくお前が行きたいって言ったんだ。景色見とけ」

「あ……え、えぇ」

なんて言いつつも、私は丸まったまま景色は見なかった。

なんというか、こうやってバンギラスの方を向いていると落ち着いていられるのだ。

自分でも意味が分からないが、全身の力を抜くことができた。

そうなると、次第にまぶたが下がってきて。

いつの間にか私は、眠りについていた。


◇ ◇ ◇

揺らさないようにと全身に力を込めながら慎重に歩くことそれなり長い時間。

やっと寝ぐらの洞窟へ到着した。

「……寝てんじゃねえか」

いつの間に寝ていたんだろうか、気づけなかった。

ゆっくり、ゆっくりと地面に横たえる。

うつ伏せか仰向けかで一瞬迷ったが、仰向けにしたら背中の傷が痛いだろうとうつ伏せを選んだ。

やっと腰を下ろそうとする俺だったが、ふと思い至って再度立ち上がる。

洞窟から少し外に出てたところの草むらを掻き分けると、そこには、一際大きな葉っぱが月明かりに照らされて輝いていた。

そのうちの何枚かを摘んで、洞窟に戻り、グレイシアにかける。

その行動には、理由なんてなかった。

別に要らないとは分かっているし、なんでこんなことをしているのか分からないが、なんとなくそうしたほうがいい気がしただけ。

多分、自己満足に過ぎないのだろう。

「……さて、やっと寝れるか」

全身にのしかかってくる疲れを抵抗せず受け入れ、俺は壁に寄りかかって目を閉じた。


ふい、と意識が浮上して、俺は目覚めた。

昨日の夕日とは反対の方向から、 陽光が差し込んできている。

太陽の高さから見るに、今日は起きるのが早めだったようだ。

伸びついでに辺りを見回す。

――グレイシアが、いなくなっていた。

「――あぁ!?」

慌てて洞窟の外に飛び出る。

グレイシアは、もう遠くにいた。

地面の揺れも気にせず、俺は走った。

「なによ、うるさいわね」

グレイシアが忌々しげに振り向いた。

「お前、まだ傷治ってないだろ」

「別にこれくらい大丈夫よ」


「……休んで行かなくていいのか」

「大丈夫だって言ってるじゃない。…………もう2回も迷惑をかけたわ。もうこれ以上は居られない」

それは、決心を固めた顔だった。

こうなってしまっては、多分動かないだろうな、と容易に想像がつく。

だから、俺は少し卑怯な手を使った。

「迷惑をかけた、と思っているんなら、もうちょっと付き合ってくれ」

「……何をよ」

「ふっかつそう、切らしちゃたからな。取りに行かないといけない」

「……そう。それなら……し、仕方ないわね」

「あぁ。とりあえず、戻ってくれ。朝食欲しいだろ」

「……そうね。戻るわ」


朝食は適当な木の実を食べてさっさと済ませ、俺たちはすぐに出発した。

「……どこへ行くのかしら」

「山一つ越えるぞ」

そう説明すると、グレイシアの顔が少し引きつった。

「私、散歩は好きだけれど遠出は好きじゃないわ」

「まあ仕方ないな」

少し不満げなグレイシアを無視して、歩く。

「山、危なくないの?」

「絶対じゃないがな。でもあそこは管理されてるはずだ」

「……管理?」

管理、と聞くと人間が勝手に入ってきてなんやかんやしていくイメージが浮かぶが、今回は別にそういうわけではない。

「まぁ、見てみれば分かるだろ」

「……?」


俺の洞窟は山の中腹にあるためしばらく下り坂が続いでいたのだが、歩くにつれてその傾斜が緩くなってくる。

「……まだ歩くの?」

「もうすぐ着く」

道が平坦になってくれば、目的地はすぐそこだ。

突如、目の前に切り立った崖が現れた。

俺の背の数十倍はある岩の塊は、まさに壁。

「行き止まりみたいじゃ……ひゃぁっ!?」

グレイシアが小さな悲鳴をあげた。

更に、ぴと、と脚にひんやりとした感触。

何故かグレイシアが俺の脚に巻き付くように密着している。

その目線は俺の真後ろに注がれていて。

俺は後ろを振り返った。


「よっ!」

という軽い挨拶が投げかけられた。

「おう。久し振りだな」

声に対して俺が答えた瞬間。

カチコチに固まっていたグレイシアの体からふっと力が抜ける。

「……知り合いかしら?」

「まぁな。友達だ」

「友達じゃなくて親友でもいいんだぜ? 俺はボスゴドラ」

ボスゴドラは視線を下に移してグレイシアに言うと、目線を再びこちらに戻した。

「……で、この娘誰? お前が1匹でいないとか何があったんだよ」

全く酷い言い様だ。

これではまるで俺はいつも孤独にいるみたいに聞こえる。


「てめぇなぁ……俺がいっつも1人でいるみたいに言うなよ」

……だって事実だからな。

少し悲しくなった。

「これに限っちゃ事実じゃねえかよ。俺も人のこと言えねえけどな」

2人して乾いた笑いを浮かべていると、グレイシアが口を挟んだ。

「それで、ふっかつそうはどこにあるのかしら? こんなところにあるとも思えないのだけれど」

「あーあー、それで来たのか。それならあっちの洞窟の奥――」

「俺が知ってるからいいだろ。ほら、行くぞ」

「おい、最後まで言わせてくれよー別にいいけどさ」

自分でもボスゴドラの言葉を遮る必要があったかは分からない。

まぁ、知っている説明をわざわざもう一度聞く必要もないだろう。


「じゃあな」

軽く手を振って別れようとするとボスゴドラが笑い混じりの声を出す。

「急ぐねぇ。ま、お幸せにっと」

「……んなもんじゃねえよ」「……そんなんじゃないわ」

全く同じことを思っていたらしく、返答が完全にハモった。

「何をどうしたらそう見えるんだ」

ボスゴドラがゲラゲラと笑い始めた。

「へいへい、さっさと行けよっ」

「…………チッ」

おちょくられた気がしてならなかったが、これ以上突っかかるのは墓穴を掘るだけだろう、と飲み込む。

「…………そんなんじゃ……ない……わよ、ね……」

グレイシアが何か言った気もしたが、小さすぎて俺には聞こえなかった。


突き当たりを左折してしばらく歩くと、一面岩かと思われた壁の一部にぽっかりと穴が空く。

「……ここかしら?」

「あぁ。でもここからが本番だぞ」

「本番って……何があるのよ」

並んで、2人同時に洞窟に入る。

光源がなくなって視界が真っ暗になった瞬間――

バタバタバタバタッ! と激しい空気の音が連続して耳朶を打つ。

「きゃっ!?」

ボスゴドラの時と同じように、グレイシアがこちらにすがりついてくる。

もっとも、今回は俺も少しびっくりして瞬間的に体をかがめてしまったので同じなのだが。

暗闇に目が慣れてくると、音の正体がやっと見えた。

ズバットの群れだ。

「大丈夫か? ただのズバットの群れだから気にするな」

「え、えぇ。別にこの程度……なんの問題もないわ」

さっき思いっきり問題ありそうなリアクション取ってたじゃねえか、というツッコミは胸の内にしまっておき、更に奥へと進む。


洞窟の中は迷宮のように入り組んではいるが、既に何度もここに来たことのある俺にはさしたる問題ではない。



――はずだった。



「……なんで出口に出ないんだ?」

記憶の中ではここで出口に辿り着くはずなのだが、太陽の気配はまだしない。

ぐるりと一周、辺りを見回す。

そして、俺は異変に気付いた。

「――――グレイシア!?」

グレイシアが、いなくなっているのだ。

(どこかではぐれたのか? 光源もあったしそんなはずないんだが……)

とりあえず探してみよう、と俺は元来た道を戻った。


(アイツ、どこ行ったのよ…………)

私は、1人暗い中迷っていた。

と言うのも、時間は少し前。

先行するバンギラスから目を離した瞬間、急に明かりが消えたのだ。

その明かりはバンギラスが持っていたのだから、もうバンギラスごとどこかに消えたとしか考えられない。

「なんで急にいなくなっちゃうのよ……」

私が曲がる場所を間違えてしまったのか。

それとも――何か良くないことでも起こっているのか。

光源のない洞窟は完全な闇の世界。

自分の足すら、顔に近づけても見えない。

下手に動くこともできず、私は壁際にへたりこんでいるしかなかった。

(……早く、戻って来てくれないかしら)

ぞわり、と背中を得体の知れない感触が走った。


辺りを注意深く見回しながら、早歩きで来た道を戻る。

地面を足で踏むたび、洞窟が揺れる。

グレイシアに気づいてもらえる可能性が少しでも高くなるようにと足音はあえて落とさない。

住んでいるポケモン達には迷惑かもしれないが。

度重なる振動のせいか、天井の一部が少し欠けてポロリと落ちた。

別に、ただそれだけなら気にはしなかったのだ。

しかし、俺は異変に気づいて注目した。

何故なら、その落ちた石が何もない空中でバウンドしたから。

瞬時に状況を読み取り、最大限まで息を吸い込む。

ありったけの力を腹へ集中させて、目の前に音をぶつける。

さっきまでの振動なんて比較にならないほどの揺れが壁を伝う。

すると、さっき異変があった空間がぐにゃりと歪んだ。

松明で赤く照らされていた奥の壁に、赤以外の色が混入する。


「……てめぇか、ゲンガー……ッ!」

敵意がにじみ出てしまったのか、喉から出た俺の声はいつもより低かった。

こちらに近づいてくる紫のシルエットが、俺を嘲るように甲高く笑った。

「ケケケッ! 気づくのが遅かったな。みんな出てこいよ!」

ゲンガーがキーキーと叫ぶような高い声を響かせる。

途端、俺の周囲の空間が一斉にモザイクがかかるようにブレた。

陽炎のようにも見えるその現象は、さっきゲンガーが現れた時と同じ。

「クケケケッ! 今日こそお前をぶちのめしてやろうか!」

相変わらずイラっとする声には、聞き覚えがあった。

前、この場所でいたずらされたことがあったのだ。

この時は俺があっさりとゲンガーたちを撃退した。

それっきりちょっかいを出してくることもなくなっていたのだが、何故今回は出してきたのだろうか。


「どうだろうな? タイプ相性のこと、覚えていないわけもないだろ」

ゴースト・毒タイプのゲンガーたちに、岩・悪の俺。

相手の攻撃は俺にはほとんど効かないし、こちらの攻撃の効果は抜群。

どう見てもこちらが有利なはずなのだが――

「おいおい、今回はお前さん、連れがいただろ」

「――っっ!!?」

思わず、息が詰まった。

連れなんて一匹しかいない。

グレイシアだ。

「居場所知ってんのは俺たちだけだぜ? いいのか?」

「くっ……!」

グレイシアがはぐれたのはこいつらのせいか……!

こう言われては俺から手出しはできない。


しかし、誰かを倒せば他に逃げられるというのであれば、全員まとめて叩きのめせばいいのだ。

そう考えて岩雪崩を準備する。

「おーっと、技打ってる暇なんてねぇぜ?」

後ろから声が投げかけられた瞬間。

パッ、とゲンガーたちの手元に光が灯った。

それが何か俺には分からなかった。

分からなかったが、何故か体の震えが止まらなかった。

それは知らないことへの恐怖ではなく、凶器を向けられたときのような死の恐怖。

「この技、知ってるか? 気合玉っていうんだけどよぉ」

ニィッ、とゲンガーが嫌な笑みを浮かべる。

「格闘タイプの技なんだよ! ケケケッ!」


「クケッ! これだけあれば避けられねぇよなぁ?」

「しかも、ゴーストタイプだから同士討ちも期待できねぇなぁ?」

「さ~て、どうするのかねぇ?」

四匹のゲンガーが、わざわざセリフを分割して俺を煽る。

(前はこんな技覚えていなかったはず……。どこで覚えてきたんだ……?)

「はっ、弱点だろうが、所詮お前らの攻撃。たかが知れてるだろ」

ハッ、とゲンガーたちを鼻で笑い飛ばしたが、内心では冷や汗が滝のように流れている。

「よし……発射ァ!」

ゲンガーが楽しげな声で叫ぶ。


同時に、いくつもの光球が同時に俺へ飛んでくる。

流石にこんなものを避けられる訳がない。

万事休す……、と身構えることしか出来なかった。

立て続けの爆発音が、俺の近くで炸裂して洞窟の壁と俺自身を揺らす。

下以外の全方位から押しつぶされるような衝撃が俺を襲う。

更に、舞い上がった粉塵のせいか、目の前が暗くなった。

叫び声を上げることすらできなかった。



――何故ならば。

(痛く、ない……?)


何が起こったのか、状況が飲めない。

周りからまだゲンガーたちの笑い声が聞こえることを考えると、だれかが助けにきてくれたわけでもなさそうだ。

では、何故……?

(……いや、理由なんかとりあえずどうでもいい)

のそり、と緩慢に手を挙げる。

(今はこの結果に乗せてもらえばいい……!)

その腕を、俺は力任せに一振りした。

視界を阻んでいた原因である砂埃が一瞬で霧散する。

笑っていた顔のまま驚きに固まるゲンガーたちに、叫ぶ。

「この程度……痛くも痒くもねぇんだよ!!」

そして、岩雪崩を手加減なしの最大出力で解放する。

ゲンガーたちは反応も出来ずに岩塊の下敷きになった。


岩を全部砕いた俺は、ろくに動けないゲンガーたちを監視しやすいように横一列に並べた。

次に、その中でさっき喋りまくっていたリーダー格ゲンガーの前に立つ。

「起きやがれ!」

短く、大きく、叫ぶ。

ゲンガーは不快そうに体を起こし、それから化け物でも見たように固まった。

「この、バケモノが……っ!」

なんのことはなく、本当に化け物を見ていたらしい。

その化け物は俺だが。

「今すぐグレイシアの場所を教えろ」

思ったよりトーンの低い自分の声を聞いて、どっちが悪役なのか分からなくなった。

「……ケッ! 俺は透明化して逃げられるんだぜ?」

言うが早いが、ゲンガーの体が地面と同化し始める。

「俺の追い討ち食らいたいか?」

対する俺はこう聞いただけ。


ゲンガーが慌てて体を元に戻す。

「そ……それは勘弁しろ!」

「だったら早く教えろ」

睨み付けると、ゲンガーはびくりと身震いした。

「……お前、教えたら信じるのかよ」

「なら案内しろ。そうすれば騙した瞬間追い討ちできる」

「……分かったよ、案内すりゃいいんだろ?」

下手に出てもダメだと判断したのか、遂に観念したらしい。

「ああ。そうだ」

「……ハァ。お前ら、先帰っとけ」

リーダーゲンガーは気だるげな声で他のゲンガーたちに指示を出す。

その指示が意外だったのだろうか、呆然とする他のゲンガーたち。

しかし、それを気にせずリーダーゲンガーは動き出した。

ゲンガーたちを放っておいて大丈夫なのか少し気になったが、ひとまずゲンガーについていくことにした。


 ◇ ◇ ◇

ぴちょん、と小さな音がした。

反射的に体が跳ねてから、その音がただの水音であることに気づく。

「はぁ……」

溜息という形で肺の中の空気を無理やり追い出し、体の力を抜く。

他に音が全くしないせいで、その溜息は洞窟の壁に反射して何重にも聞こえてきた。

目をきゅっと閉じて、壁に寄りかかっていた体を更に縮こめる。

更に、辺りを見回しても光は全くない。

本当に自分が辺りを見回せているのかすらも分からない暗闇だ。

細い声が私の口から漏れた。

「…………早く、しなさいよ……」

――別に、怖いとか淋しいとか心細いとか、決してそんなんじゃない。

光源を持っているのはアイツなんだから、私は動かないのが最良の選択肢のはず。

そう信じて私は体を更に小さくした。


 ◇ ◇ ◇

ゲンガーは俺の斜め前を無音で滑るように水平に移動する。

早く解放されたいのだろうか、その速度は早歩きでないと追いつけない。

弾む息のまま、俺はゲンガーに尋ねた。

「なぁ、なんで急に、こんなこと、したんだ?」

この疑問は、ゲンガーたちの行動から感じたことだ。

グレイシアを狙っていたのなら、そもそも俺を迷わせてグレイシアの方へ向かった方がいい。

無理に俺と対面する必要なんてなかったはずだ。

「あぁ……。なんもねぇよ。ただの悪戯だ」

少しバツ悪げな表情を見せるゲンガー。

しかし、あちらを見てこちらを見てと、目の動きが少しおかしかった。

「俺は嘘くらい分かるぞ」

「……あーッ! クソ、なんで……」


「早く本当のことを話せ」

「…………気合玉覚えたからお前にリベンジしたかっただけだ。嘘じゃねぇ」

「それなんだがよ、気合玉なんて聞いたことがねぇんだが?」

「俺もだ」

――どういう事だ。

自分で使っているのに知らなかった、というその発言の意味がわからず、俺は心の中で首をかしげた。

「ちょっと前によ、余所モンのゲンガーが来たんだよ。そいつが知らない技覚えてたから教えて貰った」

――やはり、俺の活動範囲内で見られるような技ではなかったらしい。

しかし、これからここに来る時に厄介になりそうだ……。


一人納得して考えていると、ゲンガーから声が飛んできた。

「おい、俺も聞くぞ」

「あ? 答えるかは種類によるぞ」

「なんであんなに気合玉を耐えやがった。あの量とタイプ相性ならレベル差って訳じゃねえだろ」

そういえば忘れていた。

というか、あれが偶然だったのバレていやがったのか。

強者を演じてみたの、めちゃめちゃ恥ずかしいじゃねえか。

「……それは俺も分からん。ただ、全く痛くなかった。

「技を弱めるなんてきのみくらいしか俺は知らねえんだがよ。どう言うことだ」

そのゲンガーの一言を聞いて、俺の中で全てが繋がった。

そう、今日の朝食だ。

「――ヨプのみか」


今日の朝食は特に意図もなく、適当に選んだだけ。

しかし、その中にヨプのみが入っていた気もするのだ。

「……そうかよ。そりゃ運が良かったな」

ふてくされ気味、あるいは八つ当たり気味に、ゲンガーは言い放つ。

もっとも、俺がヨプのみを食べていた理由がたまたまだったのだから、その理不尽さに憤慨する気持ちは分からないでもない。

それっきりゲンガーは黙り込んでしまう。

しばらく俺の足音だけが響く中をひたすら歩いた。

何回めかの角に差し掛かった時、ゲンガーがぴたりと止まる。

「……ここを曲がれば居るはずだ」

「あぁ、ありがとう。もう行っていいぞ」

瞬間、ゲンガーがすぅっ、と消えていく。

それをあえて確認はせず、俺は角を曲がった。


松明の光によって赤く染まった壁。

その中に、全く違う色が混じっていた。

顔を完全に隠して丸まっているグレイシアだ。

まだ俺のことに気づいていないらしかった 。

「おい、グレイシア」

声を察知して、グレイシアが勢いよく振り向く。

強張った表情が、少しずつ解けていく。

数秒少し潤んだ目で俺を見てから、ふいっと顔を背けた。

「遅いわ」

ちらり、とこちらを見る目は睨みつけでもするみたいに細められていた。

「……すまん。はぐれたのに気づかなかったのも、悪かったな」

ゲンガーに襲われて、と言い訳はしなかった。

特に知らせる必要も思い当たらなかったからだ。


「べ、別に……私も、悪かったし……」

グレイシアは何故か俯いてぼそぼそと付け足した。

俺の反応が予想外だったのだろうか、少し慌て気味だ。

「……何よ」

俯いたまま、目だけをこちらに向けてグレイシアはまた睨みつけてきた。

目が合う。

「…………あ、あぁ。別に何もない」

「そう。なら早く出口に行きましょう」

言いながら、グレイシアはさっさと一人で歩き始めてしまう。

横に並ぶと、足がひんやりとした感触を纏った。

グレイシアがぴったりと俺の足にくっついていた。

はぐれないためにはこれくらいした方がいいのかもしれないが。


二回もゲンガーに襲われる、ということは流石になかった。

松明の光だけだった洞窟に、新たな光源が生まれた。

「出口かしら?」

「あぁ。出口で合ってるはずだ」

グレイシアの足が少し早くなる。

追いかけて俺も歩幅を大きくする。

上下左右の壁が同時に消失すると、視界に眩い光が溢れた。

暗闇から通常状態へ目が適応する時間がとてももどかしい。

やっとその光に目が慣れて、景色が飛び込んで来る。

「…………綺麗ね」

グレイシアが少しうっとりとしたような声をあげた。


向こう側の壁まで、一面に生い茂る背丈の短い草。

花があちらこちらで咲き誇っていて、木々も伸び伸びと枝を伸ばす、草原のような場所。

「ここは、どこなの?」

「ん? まだ洞窟の中だが」

「そうなの? 確かに壁はあるけれど……洞窟の中にこんなところがあるなんて思わなかったわ」

「まぁ中庭みたいなもんだろ」

まぁ、と俺が言ったあたりから既にグレイシアは俺の話も聞かずにその辺の花に仰向けで体を埋めている。

煙突のような壁を見上げるグレイシアにつられて、俺も目線を真上に向けた。

岩の最上部だけが太陽に照らされている。

「……悪いな。そのまま来てたら真上から光入って来てたんだけどな」

真上から光が差していると、柔らかい草も相まって昼寝にはちょうどいいくらいの暖かさになる。

しかし、今回はここに来るのが遅すぎたせいで太陽が上を通り過ぎてしまったのだ。

日陰になった洞窟は、やはり少し肌寒い。


「別にいいわよ。これくらいの方が過ごしやすいもの」

氷タイプのグレイシアには、日陰がないくらいの方が良いのだろうか。

遅くなったのはもちろん予定外だったが、怪我の功名というやつだ。

「って、おい。そんなことしてる場合じゃねえだろ」

「え? あぁ、そうね。お昼ご飯がまだだわ」

「昼……? 朝と夜以外にも食うのか?」

「食べないの? お腹空くじゃない」

「少なくとも俺は昼には食わんな」

1日は2食が普通だと思っていたのだが、グレイシアの常識はそうでもないらしい。


ちょっとしたカルチャーショックに見舞われていると、グレイシアはくすりと笑った。

「嘘よ、ふっかつそうを取りに来たことくらい分かってる」

「そうか。なら俺も急いでる訳でもないし、遊んでいってもいいぞ」

「じゃあ、そうさせてもらおうかしら」

グレイシアがまた、ふわりと微笑みをこちらに投げかけた。

花がある方向へと歩くグレイシアを見てから、俺は地面に腰を下ろす。

息を吐き出した瞬間、疲れが全身にくまなくのしかかった。

それはまぶたも例外ではなく、俺の視界はすぐに真っ暗になる。

数秒後、意識もぷつんと途切れた。


突然に、目が覚める。

いつものうとうととした微睡みは全くなかった。

そろそろ帰ることを呼びかけるため、キョロキョロとグレイシアの姿を探す。

――いない。

(……んなわけないだろ)

自分の目を疑って、もう一度注意深く見渡す。

――やはり、見つからない。

「っ……! どこに……」

探し回るため立ち上がろうとして、俺は尻尾の違和感を察知した。

その正体を突き止めるため体を捻った俺は、驚きに思わず二度見して目を見開いた。

急にひんやりとした、しかし温かいような不思議な感触が尻尾を包む。

グレイシアが、俺の尻尾の先に絡みついていた。


その目は閉じていて、浅めの呼吸に従って少しだけ体が上下に揺れる。

単に寝ているだけのようだ。

その寝顔は、本当に僅かなものの、穏やかな笑みをたたえている。

何となく、その表情を崩してしまうのは躊躇われた。

グレイシアを起こさないと決めると、尻尾を動かせないのでここから動けない。

暇になった俺は特に意図もなく辺りを見回す。

視界の下の方に盛り上がりが見えた。

(……ふっかつそうじゃねえか)

ふっかつそうが積み重なって、小さな山を作っていた。

グレイシアが摘んでおいてくれたのだろうか。

だとしたら、気を遣わせたのはこっちの方らしい。

少し、申し訳なかった。


自然と、目線がグレイシアの方へ向かう。

口を小さく開けて、あどけない表情のグレイシア。

やることもないのでじっと見ていると、いつの間にか俺の手が伸びていた。

頭の上に優しく乗せて、2度、3度。

得体の知れない不思議な感覚に包まれながら、それを繰り返した。

が、突然ハッと気づいて手を離す。

(……何も考えずにやってたけど、俺何してんだよ)

冷静に考えれば、恥ずかしいというか気持ち悪い。

本人だって嫌だろう。

(……寝てるし、別に良いか? いや、バレてたら恥ずかしいしな……。)

結局、ひっそりと心の内で猛省するより他なかった。

「……何をしているの?」


突如、下から声が飛んで来る。

俺はなるべく冷静を努めて返した。

「おい、お前起きてたのか……?」

「いえ、今起きたばかり……きゃ、ひゃっ!?」

グレイシアは、言葉を最後まで言わずに奇妙な声を出した。

眠そうに半眼だった目がいっぱいまで見開かれグレイシアの目が驚きに染まる。

さっと心地よい冷たさが尻尾を離れていく。

「わ、私……何であなたの……」

それは俺というよりは、自分に言っているように聞こえた。

「……どうした?」

グレイシアの頬が見る見る紅潮していく。

もしかしてさっきの俺の行動が嫌だったのだろうか。

内心少し怖かったがしかし、飛んできたのは批判の言葉ではなかった。

「……ごめんなさい。邪魔だったでしょう」

隠すように顔を俯けるグレイシア。


正直、どう対応すればいいのかわからなかった。

「……俺もさっき起きたばっかだからな。邪魔も何もない」

とりあえず、迷惑じゃなかったことを伝えてみる。

しかし、グレイシアはまだ俺の答えに納得しない様子だ。

そこで、俺は斜め後ろを指差した。

「あれ、集めてくれたのお前だろ?」

「えぇ、それはそうだけれど……」

「あれが終わってるなら別に動く必要もない」

「……分かったわ」

グレイシアは一応納得した素振りを見せると、間髪入れずに帰ろうと言い出した。

俺はふっかつそうの山を抱えつつ、訊く。

「もう満足したのか?」

「えぇ、もちろん」


ぴと、と尻尾が冷却される。

同時に、ずんと尻尾の重さが増した。

「ぬあっ……!」

思わず尻尾を地面について立ち止まる。

「おい、何してんだ」

俺は振り返りもせず、その状況を作った犯人に問いかける。

「……もう歩くのは疲れたの。このまま連れて行ってくれないかしら?」

「俺が疲れるじゃねえか……」

「それに、こうした方がはぐれないじゃない」

そう言われてしまうと、弱かった。

そもそも行きに手間取った理由ははぐれたせいなので、断りづらい。

「…………じゃあせめて根元にしてくれ。先に体重かけられるのはキツい」

「まぁ、いいわ」

ぽす、と今度は尻尾の付け根に、さっきよりは幾分か軽いおもりが乗っかった。

落とさないようにバランスを調整しながら、俺は再び歩きだした。


やっとねぐらへ到着したのは、もうとっくにヤミカラスやコラッタたちが活発な活動をし始める頃。

寝てしまっているグレイシアと一緒にまず尻尾を下ろす。

尻尾からやっと力を抜くことができ、疲れた時特有のあまり気分がいいとはいえない疲れが尻尾を包む。

いくら軽いとはいえ羽を乗っけているわけでもあるまいし、長時間続けていると流石に疲弊するのだ。

次に、小脇に抱えたふっかつそうをひとまず下へ下ろしてみる。

「はぁーーー……」

長いため息を、一つ。

息を吐いたことで体から力が抜けて、一瞬寝そうになった。

眠く閉じてくる目を無理やりこじ開けて、今更のように持ってきたふっかつそうの詳細調べる。

一枚を手にとって半月の月明かりに照らすと、鮮やかな緑が確認できる。

新鮮な証拠だ。

量もふっかつそうが減らないくらいの量しかないので、初見でその辺の事情を読み取ったのだろうか。

吟味もほどほどに、俺はふっかつそうの束を貯蔵庫へ持っていく。

そして、戻ってきて座り込んだ瞬間。

本当に一瞬の時間もなく俺は眠りについた。


ぽっぽー、ぽぽっぽー、と朝を喜ぶようなポッポの鳴き声で俺は目覚めた。

ゆっくりと意識が覚醒していく。

目が覚めてしばらく経ってから、すぐ隣、下方から静かな息遣いが聞こえ始めた。

グレイシアがまたも俺の尻尾を枕代わりにしていたのだ。

別にそうなっていたからといってなにがあるわけでもないが。

とりあえず、尻尾を揺らしつつ声をかける。

「……グレイシア? もう朝だぞ」

「うぅ……んぅ………………えっ?」

起き上がってしばらくしてから、グレイシアが素っ頓狂な声を出した。

ずざっ、っと若干地面にからだを擦り付けながら後ずさる。

あまりの驚きように逆に俺が驚かされた。

「……驚かせたか?」


「い、いえ、そういう訳じゃないの」

こほん、とグレイシアは不自然に咳払いをした。

「えっと……きょ、今日は何か予定があるのかしら」

「いや、もうお前がいなきゃいけないようなことはないぞ?」

「っ……べ、別に良いじゃない。いても良いんでしょう?」

「そりゃな。迷惑ってわけでもないし、いてくれても構わんが……」

わざわざこんなところにいたがる理由が俺には分からないのだ。

別に掘り下げようとも思わないが。

「とにかく、朝ごはんはまだかしら? オッカのみなんかいいわね」

発生した沈黙を打破するためか、グレイシアが話を逸らした。

「オッカのみな。分かった、持ってくる」

ありがたく話に乗せてもらって、俺はその場を離れた。


オッカのみと適当なきのみを持って戻ってくると、グレイシアはこちらを見もせずに言った。

「オッカのみは冷たい方が好きなの。熱いと辛味が増すもの」

背中で命令するのが板についているあたり、身侭な印象が拭えない。

なんというか、顎で使われている感じでどうも雑用係っぽい。

別にわざわざ嫌いなものにしようとも思わないし良いのだが。

というわけで火炎放射を利用して一瞬だけ火で炙り、氷の層を薄くしたオッカのみをグレイシアの方へ投げ渡す。

「ほらよ。これで良いか?」

「えぇ! ……お、美味しそうじゃない」

一瞬こちらに向けて嬉しそうな顔をして、それから慌ててそっぽを向くグレイシア。

……というか、この前もこんな反応をしていなかったか?

食べ物には割と弱いらしい。


「食わないのか?」

「た、食べるわよ……」

グレイシアは解凍したばかりのオッカのみを美味しそうに小さな口で頬張りはじめる。

そんな様子を見ながらこちらもきのみを口に放り込む。

咀嚼の時間がどうも暇で、自然とどうでもいいことを考えてしまう。

「なぁ、お前、バトルとかしないのか?」

「バトル? やれないことはないけれど……」

「今日やることもないだろ? ならバトルしないか?」

「…………」

グレイシアは食べる手を止め、俯いて黙考し始めた。

唯一見える横顔からは、何を思っているのか全くわからない。

「……いえ、やめておくわ。得意なわけでもないし」


「そうか。変なこと言って悪いな」

「別にいいわ」

それっきり、食べ終わるまではお互いに一言も喋らなかった。

量あったオッカのみを完食したグレイシアがすくっと立ち上がった。

「私、散歩にでも行ってくるわ」

「あ、あぁ。好きにしてくれて構わん」

「…………っ」

グレイシアはさっさと早足で洞窟を出て行った。

横顔がどこか怒っているように見えたのは、気のせいだといいのだが。

そして、洞窟には俺と転がっている数個のきのみだけが残された。

「……ボスゴドラのとこでも行くか」

さっきバトルの話を持ちかけたら、急激にバトルがしたくなったのだった。

残り数個をさっさと口に放り込み、食べ終わる間も惜しんで俺もすぐに出発した。


 ◇ ◇ ◇

ぺしぺしと曖昧にぼかされた木の影を踏んで歩く。

「……はぁ」

溜息が漏れた。

上を見ても、見えるのは不規則に揺れる木の葉と空一面にかかる薄い雲だけ。

横を見ても、もちろん誰もいない。

――本当はいるはずだったのだが。

足が重い。

もちろんその理由は疲れなんかじゃなく。

(――別に、あいつがいようがいまいがやるのは歩くことだけじゃない。何が変わるのよ)

私は頭を強く振った。

しかし、憂鬱な気持ちは水を手でかいた時のように瞬時に戻ってくる。


元々、自分がなんでこんなに憂鬱になっているのかもわからない。

ちょっと言うタイミングを逃して誘いそびれただけなのに。

むしろ一人の方が気楽なはずなのに。

と、その時。

頭上でガサガサッ、と物音がした。

驚いて一瞬体を震わせた後、ゆっくり上を見上げる。

葉っぱに隠れて見えないが、木の中に何かがいる。

反射的にその場から離れた瞬間、木が一際強く揺れた。

そして、何かが落ちてくる。

しかし、何故か地面まで落ちずに私の目の前で止まった。

「あら、おはようございます~」

「なっ……!?」


落ちてきたものに突然話しかけられて、私は驚いて硬直してしまった。

数秒後、落下物の正体がミノマダムであることを認識する。

「お、おはようございます……?」

「あら? グレイシアさん……!?」

勝手に上から降ってきたくせに、勝手に驚く葉っぱの塊。

誰かを確認もせずに落ちてきているなんて、私が悪いポケモンだったらどうするのだろうか。

「えぇ。そうですけれど」

「だ、大丈夫なんですかっっっ!!?」

「…………は?」

突如ミノマダムがものすごい剣幕で私に迫ってきた。

正直何を心配(?)されているのか分からない。

あるとすれば、3日前に怪我をしていることくらいだ。


「……えっと、なんのことですか?」

「え、何もされてないんですか!?」

私は内心で溜息をついた。

話が噛み合わない、というより全く話の核心が掴めない。

「だから、なんの話でしょうか」

「何ってあなた、あのバンギラスに捕まってたじゃないですか!!」

「バンギラスに、捕まってた……?」

「えぇ! 寝ているあなたを持ち上げて自分の洞窟に入って行くバンギラスを見ましたから!」

「私、別に捕まってなんかいないんですが? むしろ、助けてもらいました」

すると、ミノマダムの目に同情の色が宿った。

「……可哀想に。バンギラスはゲンガーと手を組んで悪さをしていると聞くし、きっと催眠術にかけられているんだわ」

「催眠術にもかかってなんかいません。あいつは……悪いやつじゃない」


もちろん私だってまだ3日しか関わってはいないわけで、もしかしたら私の知らない面があるのかもしれない。

でも、少なくとも今の私にはバンギラスが悪さをするようには見えない。

ミノマダムの表情が、同情を通り越して嘲りを示す。

「3日前もハハコモリさんのうちが恐喝に遭ったって嘆いていましたわ。しかもふっかつそうを取られたんですって! どう考えても悪者でしょう!!」

3日前……? ふっかつそう……?

疑問符が頭に並ぶ。

それらは直後に繋がりあって、一つの推測を私にもたらした。

それが本当なら、申し訳なくてたまらない。

数瞬の思考の後反駁しようとした私だったが、ミノマダムに先を越されてしまう。

「……あなた、もしかしてバンギラスの仲間なんじゃないですか?」

「……はっ?」

「近づかないでくださいまし! この悪者!!」


ミノマダムが叫ぶが早いが、私の視界を緑が埋め尽くす。

あまりにも唐突で、近距離も相まって抵抗するのは不可能に近かった。

あからさまに攻撃の意思を持ったそれは私の体を切りつけて無数の生傷を作っていく。

――これは……リーフストームね。

全身の痛みを堪えながら、私は口元に意識を集中した。

集めた冷気を前方に撒き散らす。

木の葉の大群に、氷雪混じりの突風が衝突する。

勢いの差は明らか。

一瞬で木の葉たちは失速した。


「まぁ! 攻撃してきたわ! やっぱり悪者なのね……!!」

(頭おかしいんじゃないの? 脳みそあるのかしら)

しかし、口に出してしまえば勘違いは完璧なものとなるので、かろうじて堪える。

「攻撃してきたのはあなたでしょう」

「あ、あなたが近づいてくるから悪いのです!」

「そもそも、私は相殺しかしていないはずよ」

「何をふざけたことを! 私の大事なミノが凍ってしまっているのが見えないのですか!?」

目を凝らして見ると、下の方の葉っぱが霜がついたように凍っていた。

「その程度。私は傷だらけなのだけれど」

「悪者なのだから当然ですわ!」

私は諦めることにした。

自分は攻撃しても相手が悪者だからよくて、ちょっと凍った程度で糾弾するしてくるようなやつだ。

どう考えても頭が悪……よろしくない。


嫌気がさした、というか軽くイラっとした。

少し本人へ八つ当たりでもさせてもらおうかしら。

「……ふふふ。よく見抜けたわね、その悪い頭と腐った目で」

「な、なんですって!?」

「喋るんじゃないわよ。不快だわ。黙ってちょうだい」

「や、やっぱり悪者じゃないですの!!」

「喋るな、って言ったの聞こえなかったのかしら。仕方ないわね、その小さな頭には綿が詰まっているんだもの」

「なんて極悪な……!」

「これでも食らって黙りなさい!」

こっそり集めておいた冷気を一気にミノマダムの真ん中へと放出する。

れいとうビーム。私が出せる最速の技。

ミノマダムは抵抗もできずに氷漬けになった。

溶かすための炎技もミノマダムでは弱点で使えないし、溶かすまでに苦労するだろう。

いい気味だ。

1つ嘲笑して、私はその場を離れた。


「ねぇ、あのポケモンって」

「グレイシア、よね」

「グレイシアってこの前バンギラスが攫ってたっていう?」

「そうそう。恐喝に続いて何するつもりなのかしら」

「分からないけど……グレイシアは見た目可愛いし…………っていうことも」

「あー、あるかもしれないわね」

さっきから、木のざわめきに混じってささやき声が聞こえてくる。

私は足を止め、声のした方向をにらみつけた。

エルフーンとドレディアがわざとらしく目をそらしてそそくさとどこかへ行った。

「はぁ……」

今日何度目とも分からないため息をつく。

「なんであいつがこんなこと言われているのよ……」

小声でそう呟きつつも、理由は分かっていた。


それは、自分。

ひそひそと話すのを聞いている限りだと、必ず私の名前が入っている。

つまり、バンギラスが色々言われている原因の一端は私が持っているのではないのか。

迷惑をかけていることを改めて認識してしまうと、もう頭はブルーな気持ちで埋め尽くされる。

立ち止まって、空を見上げる。

相変わらず空は太陽の光なんてかけらもないどん曇り。

しかし、雲の色から見ても、空気の湿度から見ても雨は降りそうにない。

いっそ雨が降ってくれたら、とそう思った。

私は上を向いたまま大きく息を吸い込んだ。

「――~~♪」

目を閉じ、ゆっくりと、歌い始める。


言葉の一つ一つを発するごとに、空気が湿っていく。

なおも声を出しながら、空を見上げる。

さっきまで灰色一色だった空が圧倒的な黒雲に支配されていく。

ぽつり、と見上げていた額に水が一滴。

それらはコラッタ算式、いやそれ以上のスピードで、空間を埋め尽くした。

ザアアアアァァァァ……、と雨が木々の葉を打ち付ける音をBGMに、歌は終わりへと向かう。

「♪~~~…………」

そして、雨音だけを取り残して他の音が消える。

雨が背中を打ち、体温を奪っていく。

私はなすがままにただ呆然としていた。

――これからどこに行こうか。

あの洞窟へ戻る、なんて申し訳なくてできない。

しかし、他に行くあてはない。

でも、戻るのは……。

私は、ループする思考を放棄してその場に立ち尽くした。


「…………あ、れ……?」

気づけば私は、誰もいないあの洞窟の前に立っていた。

何故ここに来たのかわからない。

何も考えなかった結果、無意識のうちにここへ来てしまったのだろうか。

これではまた迷惑をかけてしまう。

しかし、ここで安心を求めている自分も確かにいた。

迷惑をかけると分かっていつつ、やっぱりここに戻って来た自分もいたはずだ。

自分勝手で、わがままでしかない行動。

「……最低ね」

嘲笑しながら呟いた言葉は、正確に自分自身の心をえぐる。

引き返す、という選択肢もまだあったはずなのに、私はそのまま洞窟へ入った。

体を震わせて水気を飛ばす。

そのまま私は崩れ落ちるように壁の端に横たわった。

奪われた体温を少しでも取り戻そうと、体を丸める。

そんな全身を脱力できる格好では、襲い来る眠気に耐えることなんて出来なかった。


「おい、起きろ」

耳に突き刺さる、短くて大きな声。

たまらず私は飛び起きる。

すぐ目の前にはバンギラスの顔。

「っ! …………?」

一瞬自分の口元が綻ぶのを感じた。

しかし、バンギラスのこちらを睨みつけるような険しい表情を見て、笑みなんてものは跡形もなく消え去った。

「……な、何よ」

「出て行け」

「………………っ!?」

私は思わず息を詰まらせた。

心の奥底で予想はしていたのに、それでも信じられない言葉。

冗談ならそうだと早く言って欲しい。


「聞こえなかったか? 早く出ていってくれ」

バンギラスは最大限怒りを抑えている風の声で私に迫る。

「……突然、なんで……?」

「見えねぇのか?」

「見える……?」

私はバンギラスの体を目を凝らして見た。

私と同じように、全身に小さな傷が走っている。

「これ、は……?」

「お前のせいだよ。分からねぇのか」

私は、はっと思い出した。

もちろん、分からないはずがない。

さっきミノマダムを氷漬けにしてしまったせいで、更に悪評が広まってしまったのだろう。

「だ、大丈夫……なの?」

「大丈夫もなにもねぇだろうが!」

バンギラスが声を張り上げ怒鳴った。


空気がビリビリと震える。

グラードンにのしかかられるような圧倒的威圧感に、私は萎縮するしかなかった。

「っ……! でも……」

舌が動かない。

次の言葉を私が出すよりも先に、バンギラスは冷たく突き放してくる。

「知らん。早く出て行ってくれ」

「…………分かったわ、分かったわよ……っ!」

もうこれ以上は無理だ、と思った。

口の中を小さく噛んで身体の痛みをこらえ、脚を洞窟の外へ伸ばす。

頭をを振って躊躇を振り払う。


そうして足早に洞窟から出て、一歩、二歩。

足が止まった。

早く離れないと、と思っているのに、足が動かない。

地面に顔を向けると、足元に一つ雫が落ちた。

地面に小さなシミができる。

(泣いてる……? なんで……)

振り払っても、すぐにまた視界がぼやけてしまう。

どうせ自分でも出て行ったほうがいいと思っていたから、丁度いいはずなのに。

いくら自分を説得してみても、目からは延々と涙が溢れては顔を伝う。

これ以上動かなかったら、もう動けないかもしれない……。

私は震える脚を無理やり動かして、濡れた地面を踏みつける。

地面を濡らし、その地面を踏みながら、私は走った。


気がつけば、光が全くない鬱蒼とした森にいた。

狂ったようにうねっている、不気味な木々。

西日だった太陽はいつの間にかいなくなっていて、中途半端に斜めの月光は全て木が遮ってしまっている。

当然こんな場所、知っているわけもない。

疲れなのか足に力が入らなくなって、私はその場にへたり込んだ。

下は湿った感触が気持ち悪い土だったが、そんなこと気にしてもいられなかった。

何もすることがなくて目を瞬かせていると、涙がとっくに乾いていることに気づく。

拭きすらしなかったせいで、顔の一部で涙が乾いた後の感触がこびりついている。

手近な木まで動いて、寄りかかる。


はぁ……と溜息をついた瞬間、地面が激しく揺れ始めた。

動くことも出来ないような強い横揺れ。

私は伏せることくらいしかできなかった。

(なによこれ、早く止みなさいよ……!)

しかし揺れは一向に収まる気配はなく、それどころかその強さをどんどん増していく。

そんな中、私は意識が遠ざかっているのを感じた。

靄が掛かったように思考が出来なくなる。

そして、伏せていて元からほとんどなかった私の視界の光が完全に消え去った。


「おい、グレイシア! 大丈夫か?」

体が揺さぶられる振動で、私は意識を取り戻した。

半目を開けて目の前の様子を確認する。

瞬間、頭にかかって思考を邪魔していたもやは綺麗さっぱり消え去った。

「……あなた、なんでここに?」

「居ちゃ悪いか。ここは俺の住処なんだが」

「すみか……?」

「んなことはどうでもいい。その傷はどうしたんだ?」

「…………これは」

「別に無理に聞こうとはしないが」

「……いえ。やっぱり話しておかないとダメね」


私は時々考えて思い出しながら、経緯を説明した。

「……すまんな。迷惑をかけた」

「あなたのせいじゃないわ。それに、迷惑をかけたのは私も同じ」

「ん? お前は何かしたのか?」

「ミノマダムを凍らせちゃったもの。あれでは悪評が加速するわ」

「あんなやつは凍らされて当然だ。どうでもいい」

バンギラスが一緒に怒ってくれたのが、とても心強い。

「……ところで。あなたは怪我していたりしないの?」

さっきからバンギラスの体を見る限り、傷の類は全く見つからない。

さっき起きた時はあったのに。

「俺はな。とりあえず自分を心配しろ」

「え、えぇ。私は大丈夫だけれど……」

場所が洞窟に戻っていて、バンギラスの傷もなくなっている。

となると、可能性は。

(なんだ、夢だったのね。…………良かった)


 ◇ ◇ ◇

せっかく傷が治りかけて来たのにまた作って来やがって……。

このままだと大事なふっかつそうがまた切れちまうじゃねえか。

「本当に大丈夫なのか? 念のため使っとけ」

脚の傷を気にするグレイシアの前にふっかつそうを置く。

「え、いいわよこれくらい。勿体無いわ」

「いいから使っとけ。治るなら早い方がいいだろ?」

「……でも、あなたのところのを使うのは」

「これを取ったのはお前だろ。使えばいいんだよ」

「…………。分かったわ。お言葉に甘えさせてもらうわね」

渋るグレイシアを説得してふっかつそうを渡した時だった。


「ここですわっ!」

俺のでも、グレイシアのでもない甲高い声がうるさく洞窟に反響する。

見れば、ミノマダムを先頭に草タイプだの水タイプだの格闘タイプだの、俺が軒並み苦手なタイプのポケモンが勢揃いしていた。

何十もの憎悪の目線が俺に突き刺さる。

「ちょうど取引現場ですわね!! 悪者どもが!!」

「……突然人の住処に押しかけてなんなんだ」

「なんなんだじゃないでしょう!? 強奪したもので取引なんてして……!」

「これは強奪したものなんかじゃないわ!」

「何を言うんですの! 仮にそれが奪ったものでなかったとしても、恐喝していたことには変わりありませんわ!! 皆さん、やってしまいましょう!!!」

それ以上俺たちが何かを喋る暇もなかった。

一斉にポケモン達が技を溜め始める。

あからさまな害意があればこちらからも攻撃はできる……とはいえ、この量を押さえるのは流石に難しい。


「はっ、攻撃できるもんならしてみりゃいいじゃねえか!」

言い放って、それから俺は相手より早く岩雪崩を発動した。

ドガドゴッ、と地を揺らす轟音を立てて岩塊が立て続けに落下する。

一瞬で洞窟の入り口は閉鎖されてしまった。

直後、即席の岩の盾に数々の攻撃がぶつかる音が岩越しに聞こえてきた。

念のため二重、三重に岩を落としておく。

あの程度の攻撃ではそう早く突破はされないだろう。

「入り口を塞いじゃって大丈夫なの?」

「誰も入り口がここだけとは言ってない。付いて来い」

暗くては道も分からないので、溜めておいた松明用の木の一本に火をつける。

ポケモン達が岩を破壊しようとしている間に俺達は洞窟の奥へと走り出した。


出たのは、さっきの入り口とは真反対の入り口だ。

ここなら外を回ってくればかなりの時間がかかるし、中を通って来たとしても迷っている時間は稼げるはず。

とりあえず安心していいだろう。

「走ったけど大丈夫か?」

「……傷は大丈夫よ」

「そうか。ならいい」

やっと一息ついて、俺は洞窟の壁に寄りかかる。

「お前は座らないのか?」

「……好きにするからいいわよ」

「そうか」

余裕ができたことで、頭が無駄なことを考え始めた。

「それにしても有志なのかなんなのか知らないが、よくあれだけ集まったな」

「……一番連携力が強くなるのは、共通の敵を持った時よ」

「敵、か。別に今更いいけどな」


「…………ごめんなさい」

唐突に、グレイシアに謝られた。

声のトーンが、暗い気持ちを表していた。

「何がだ? 謝られるようなことはなかったと思うが」

「いいえ、あるわ。話したけれど、ミノマダムが襲ってきたのは私のせいだもの」

「いや。あいつは今に限らずうるさかったが」

「……でも、私のせいで実際に行動に移されてしまったのは事実のはずよ」

「……否定はできんが」

「ほら、ね? やっぱり、私がいると迷惑を掛けちゃうわよね……」

「こんなん迷惑ですらねえよ。むしろ俺がお前を巻き込んじゃうかもしれない」

俺が座っているおかげで俺とグレイシアの目線の高さが同じになっている。

しかし、グレイシアとは俯いていて目は合わない。

やがて、グレイシアは俺に表情を見せないで体を洞窟とは反対方向に向ける。


二、三歩歩いてから、ふと思い出したようにグレイシアは顔だけで振り向いた。

何かが吹っ切れたような、そんな笑み。

「3日くらい、かしら? 助かったわ。ありがとう。でも、あなたに迷惑を掛けたくないから私はもう出て行くわ」

そのままグレイシアはスタスタと洞窟から離れて行く。

グレイシアの言葉が頭を巡る。

迷惑を掛けたくないという自分の意思だと主張したその言葉は、俺に有無を言わさないような言外の意味を含んでいる。

――つまり、何か言われると分かっていたということ。

確証はないが、もしそうだとしたら……。

顔を上げて見れば、もうグレイシアの姿はかなり遠くへ行ってしまっている。

俺は全速力で追いかけた。

ドス、ドス、と腹の底から響くような重低音が連続する。

それに気づいたグレイシアの足が速くなった。


それでも、体格差か、俺の方が早かった。

「……おい、グレイシア!」

息急き切って走りつつ、叫ぶ。

ぴたり、とグレイシアが止まった。

「……なによ」

背中越しに発したその声は暗涙していたようにびしょびしょに濡れていて、さっきのカラッとした口調は見る影もない。

「別に出て行くって言うなら、俺は勝手にしてくれても構わない」

「じゃあ、なんで」

「だけどよ。行く先はあるのか?」


「…………っ!!」

息を詰まらせる音が聞こえた。

「本当にあるなら、引き止めて悪かった。でも、もしないなら。勝手にされた余計な気遣いで出ていかれて野たれ死なれても寝覚めが悪ぃんだよ」

グレイシアの眉が驚愕に跳ね上がる。

そして、目の奥に怒りが具現化した炎が宿る。

「…………勝手にって、何よ。余計なって、何よ……!」

「事実だろ。俺は迷惑じゃないって言ってんだ」

「私は、あなたを心配して……!」

「それはこっちのセリフだ。行く当てもないのに相談もしないでただ出て行って」

「……でも」

「迷う者道問わず。寄る辺なんか自分だけで解決できると思うんじゃねえぞ。俺は問題ねぇからよ」

だんだんと、目の炎が涙に鎮火されていく。


反応からして、推測は当たっていたらしい。

追いかけて来てよかった。

「……本当に、いいの?」

「さっきから良いって言ってるだろ」

「じゃあ…………もう少し、いさせて、ください」

「お前が嫌じゃないなら俺はいくらでも構わん」

「全く……せっかく綺麗に別れようとしたのに……恥ずかしいじゃない」

「自己犠牲は綺麗じゃねえよ」

「……そうね。…………ありがと」

少し濁音が混ざった声で、グレイシアは小さな小さな言葉を呟いた。


洞窟をもう一度抜け、いつもの場所へと戻ってきた。

諦めたのか、攻撃はもう止んでいる。

このままでは外に出られないので、尻尾を一振りして入り口を塞いでいる岩の山を突き崩す。

実は待ち伏せされていて……なんてこともなかった。

まだ完全に安心してはいけないのだろうが、ひとまず休むくらいはいいだろう。

ゆっくり腰を下ろして足の力を抜くと、洞窟全体が低く振動した。

その横に、グレイシアがちょこんと座る。

しかし、するようなこともなければ、特に話すこともなく。

何となく居心地のあまり良くない雰囲気が漂う。

誤魔化しに俺は洞窟の外を見上げた。

空模様は、淡い藍色が若干優勢なものの、空の真ん中で赤と青が拮抗している。

日没はもうすぐだ。

「……そういえば、晩飯食ってねえな」


座ったばかりで立ち上がるのは少々億劫ではあったが、空腹には勝てない。

洞窟奥へ向かおうとして、違和感に気づく。

グレイシアが何も言って来ないのだ。

振り向いて様子を確認しても、ぼんやりと思考に耽るように俯いて押し黙ったまま。

「おい、大丈夫か?」

声をかけると、慌ててグレイシアは取り繕い始める。

「あ、え、えぇ。大丈夫、よ」

「なんか食いたいもんないのか?」

「……ないわ。嫌いなもの以外なら」

「そうか。じゃあ適当に持ってくるぞ?」

「お願い、します……」


甘めの木の実を適当にチョイスして持って来て、グレイシアの目の前に置いた。

しかし、グレイシアは微動だにしない。

「…………食べないのか?」

「いえ、食べるけれど……」

そうは言いつつも、グレイシアは地面を超えてずっと地下を眺めているように俯いている。

さっきからずっとこの調子の理由なんて、一つしか思いつかなかった。

「なぁ、聞いていいか」

「……答えないかもしれないわよ。それでもいいなら」

予防線を張って来るところを見ると、やはり聞かれたくはないのだろう。

しかし、俺はあえて無視してそのまま続けた。

「なんで、行くあてがないんだ? 近くで火事が起こったなんて話も聞いてないが」

「…………!! あなたには関係ないわよ……っ!」

図星、だろうか。


しかし、このままでは話を聞いてもらえなくなる。

なので、俺は先にこちらの情報を開示した。

「じゃあ……なんで俺が冷凍ビームとか火炎放射とか、野生じゃ使えないような技を使えると思う?」

そっぽを向いていたグレイシアが、ものすごい速さでこちらを振り向いた。

その顔は余すところなく驚きに染まっている。

「…………まさか、あなたも、なの……?」

「もしかするとお前の言っているのと俺の過去が違うかもしれないけどな。……話してくれないか?」

なおも迷う素ぶりを見せるグレイシアだったが、最終的にこくりと一つ頷いた。

「……分かったわ。あなたなら」

今度こそ、説得が成功したようだ。

グレイシアは左上に目線をやりながら、訥々と喋り始めた。


 ◇ ◇ ◇

育て屋と呼ばれるポケモンを育てる施設の前で、一人の男が自転車を乗り回していた。

と、男が連れているファイアローが温めている5個の卵のうち一つが揺れ動いた。

「……やっとか。ったく、これだから孵化歩数の長いやつは」

悪態をつきながら、男はファイアローから卵を受け取って正面のカゴに乗せる。

そのまま、止まりもせずに自転車を走り回らせていると。

カゴの卵にヒビが入って、中から茶色の耳が飛び出した。

「ぶいっ! ぶぶい!」

生まれたばかりのイーブイはまん丸な瞳で男を見つめる。

しかしそんなことは意にも介さず、男は小さなモニターがついた機械をイーブイへ向け、

「……チッ、C抜けかよ。ゴミ個体が。これで何体目だと思ってる」

口の端に泡を溜めて、ブツブツと悪態をつく。


「ぶい? ぶ……ぶぶい!」

「うるせぇ! 黙ってろ!」

次の瞬間、イーブイは道のそばに投げ捨てられてしまった。

生まれたばかりで、しかも走っている自転車の上から、だ。

イーブイは全身に傷をつけながら数メートルをゴロゴロと転がる。

傍らに飛ぶファイアローは、しばらくイーブイに哀れみの目を向けていた。

しかし男はそんなものには目もくれず、ファイアローから次の卵を受け取っている。

同じように生まれてきたイーブイに、流れ作業で同じように事務的に機械をかざす。

「…………めざ炎理想キターーーーー!!!」

男が唐突に空を仰いで叫び始める。

唾がファイアローに掛かったのも気にも留めず、男は自転車を折りたたんでバタバタと育て屋の中へ走って行った。


一年の時を経て、生まれたイーブイはグレイシアへと進化させられていた。

「グレイシア、吹雪!」

「しあああああ!」

氷雪混じりの突風が、グレイシアの目の前にいる、ナットレイ、ボーマンダへと迫る。

しかし、吹雪は薄皮一枚、ギリギリで二匹の間だけを通り過ぎてしまう。

「ッチ……ナットレイにめざパッ!」

「……っ……しあっ!」

今度は、グレイシアが緋色に輝く光球を連射する。

それらは全てナットレイに命中してその体を炎で包んだ。

「4倍弱点だ。流石に――」

「ナットレイ、グレイシアにジャイロボール」

直後、赤い煙の中から銀色の物体がスピンしながら高速で飛び出てきた。

そんなものが空中で技を打って着地した直後のグレイシアに避けられるはずもなく。

まるで車に轢かれたようにグレイシアは向かいの壁へ勢いよく叩きつけられた。


対戦終了後、男は怒り狂っていた。

怒りの矛先は、グレイシア。

「なんで吹雪外すんだよッ! マンダにくらい当てろや!」

ナットレイのジャイロボールをまともに受けて、倒れたまま動くことすらできないグレイシアに、男の足が突き刺さる。

「し……しあ……」

「なんでめざ炎耐えられんだよッ!! 珠持ってんだからナット倒せよ!!」

2度、3度……全身に次々と男の足が刺さっては抜かれ、また刺さる。

「……し……あ…………」

グレイシアは苦しそうな呻き声を出すことしかできない。

蹴って、殴って、罵倒して。

これが、グレイシアの扱いだった。

男はイライラすると日常的に自分のポケモンへ八つ当たり行為を繰り返しているのだ。

そして、バトルの時他に持っているのはボーマンダやガブリアス、メタグロスなんかの大きくて力強いポケモンだけなので、バトル後の八つ当たりの矛先はいつもグレイシアに向けられる。


「あァもう! 負けたのお前のせいだろ!!!」

足を振りかぶっての、先ほどまでよりも重い一撃。

それを受け、グレイシアの小さな体は、2,3メートルほども吹き飛んだ。

追撃をしようと、男が更にグレイシアの元へと足を進める。

グレイシアが傷だらけの足を震えさせながらなんとか立ち上がって、

「…………しあ……ぐれいしゃ……っっ!!」

男の顔面目掛けて冷凍ビームを放った。

水色の光線は男の眉間を冷酷に狙っていた。

抵抗されるなんて予想もしていなかったのか、男は避けもせずにただ固まっている。

「なっ……がっ……ぐああぁぁッ!」

直後。顔に氷の幕を張られた男の、断末魔のような叫び声が施設内に響き渡る。

その間にグレイシアは男のバッグを漁ってから、施設の外へと飛び出て駆けて行った。


男は数分パニックに陥った後、リザードンを呼び出して顔の氷をなんとか溶かした。

既に男の思考はグレイシアへの殺意とも呼べるどす黒い塊に支配されていた。

道行く人に尋ねながら、グレイシアの足取りを追い始める。

しかし、いくら時間を稼いだとはいえ、やはり体力を消耗した上傷ついたポケモン。

短時間で遠くへは行けなかった。

そう時間はかからず、街からは外れるもののそう遠くない森でグレイシアは発見されてしまう。

男は荒い手つきで草むらを掻き分け、地べたに落ちている水色の塊を確認した。

「見つけた……見つけたぞ……!!」

男の喉から気味の悪い声が垂れ流される。

その声でグレイシアもまた男に見つかったことに気づいた。

「逃がさねぇ……ボコボコにしてやる!!」

男の狂気に満ちた目に本能的恐怖を覚えたのか、グレイシアは体の不調などなかったかのように脱兎のごとく走り出す。

「待ちやがれ!」

当然男も追いかけ始め、捕まれば命の保証はされない鬼ごっこが始まった。


男とグレイシアとでは当然男の方が早く、彼我の距離はどんどん縮まっていく。

あと4,5歩で男が追いついてしまうというところまで近づいた時。

突然グレイシアが振り向き、男の足へと冷凍ビームをかました。

「ぐぁっ!?」

足を止められた男は走っていた勢いのままその場へ倒れ込んでしまう。

倒れてくる男を避けると、何故かグレイシアは踊り始めた。

それを見た男の目が最大限まで開かれる。

「……そ、それは!」

グレイシアが踊るにつれて、雲の色が急速に濃さを増していく。

次の瞬間、まさにバケツをひっくり返したように前触れもなく雨が降り始めた。

一粒一粒が重みを持った、篠突くような雨が男とグレイシアをひっきりなしに叩く。

整備なんてされていない獣道のようなでこぼこの道路に無数の水たまりが作られていく。


「雨乞いかよ、クソ……冷てぇ……」

氷と雨にどんどん奪われていく体温を保つため、男は必死に腰元をまさぐってモンスターボールを探した。

男が複数の水たまりに沈んでいく様子を見たグレイシアは、その小さな口元に冷気を溜め込み始めた。

それを見た男の目が、同じようにかっ開かれる。

ただし、今度は原始的な恐怖によるものだった。

「やめろ……やめてくれ……!」

掠れた声でポケモンに命乞いを始めた男の胴体が――

「しああっ!」

グレイシアの渾身の冷凍ビームに撃ち抜かれ、下の水たまりと一緒に凍りついた。

氷に埋められ、男は全く身動きが取れなくなってしまう。

冷たい雨に為すすべなく晒される男を見捨て、グレイシアはその場を去った。


 ◇ ◇ ◇ 

「……今話したのが三日前、あなたと会う直前。途中はあまり思い出したくないからちょっと省略させてもらったけれど、いいかしら」

グレイシアは脚の傷をいじって気にしながらそう締めくくった。

「……あぁ。俺よりもずっと大変だな」

「やっぱり、同じだったの?」

問われて俺は遠い昔を思い出そうと思考を巡らせる。

「俺か? 俺みたいなデカイのは街の暮らしに合わなかったってだけだ。進化するとすぐに逃がされたよ」

もう昔のことはあまり覚えていなかった。

しかし、少なくとも俺は進化する前までは普通に楽しかったような、そんな記憶が漠然と残っていた。

同じくトレーナーの元から離れて野生になっているとはいえ、境遇の違いは火を見るよりも明らかだ。

「そう……」

やはり嫌なことを思い出してしまったせいか、憂鬱気味なグレイシア。

その瞳の奥には何が映っているのだろうか。

考えたところで、自分以外の思考はやはり分からなかった。


物思いにふけっているような面持ちで空を見上げるグレイシア。

さっきまで微妙に朱色が混じっていた空は、既に真っ黒に塗りつぶされていた。

雨乞いの時に周りの雲まで巻き込まれて散ったのか、空には雲の欠片すらない。

少し細く弱ってしまった月の代わりに、数多の星々が一つ一つ存在感を放っていた。

俺に背中を向けて外を見ていたグレイシアが、その小さな背中越しにぽつりと呟く。

「……こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけれど。……あなたも同じで良かったわ」

表情は窺い知れないが、少なくともその声は柔らかい。

「俺とお前じゃ理由がだいぶ違うと思うがな」

「それでも、いいの。――あなたと、少しでも一緒だから」

振り向いて、グレイシアは心底嬉しそうに微笑みを浮かべた。

不覚にも、少し見惚れた。

「…………そうか」

適当にお茶を濁して、俺は手に持ったまま食べていないノワキのみを口に放り込んだ。


「これ、あげるわ」

用意した木の実をちょうど全部食べ終わった頃、グレイシアが何やら差し出してきた。

それは、うぐいす色の半透明をした綺麗な石。

中には赤いものが閉じ込められている。

「ん? ……これは、なんだ?」

「私のトレーナーだったやつのバッグから適当に盗ってきたの」

「でも、なんで俺に? お前が持ってたほうがいいんじゃないか?」

「それは……色、あなたに似合うと思って」

なるほど、確かに言われてみれば俺の体色とはかなり似ている。

「そうか。ならありがたく貰っておこう」

しかし、元々こういったものを俺は何一つ持っていない。

保管なんかをどうすればよく分からなかった俺は、とりあえずそのままその石を手に握っていることにした。


――翌日。

寝起きの凝り固まった体をほぐすべく伸びをしつつ、俺は横を見やる。

――何も、ない?

反対側……やはり、何もない。

数秒かけて、俺の脳は事態を正しく把握した。

「……グレイシアっ!?」

一瞬で跳び起き、洞窟中を探し回る。

しかし、見当たらない。

となると、考えられるのは――

「――連れ去られた……?」

何かを考えるまでもなく、俺は洞窟を飛び出た。

自分で出て行ったという可能性もあったかもしれないのに、そんなことは脳裏にかすりもしなかった。


ドス、ドス、と地面が揺れる。

道行くポケモンたちは蜘蛛の子を散らすように慌てて逃げていく。

いつもならあまり良い気分はしないが、とにかく急ぎたい今の俺にとっては助かるのだった。

行く先は一つ、昨日のミノマダムのところ。

辿り着いた俺は、大木をへし折る勢いで揺らした。

「おい、ミノマダムッ!」

ガサゴソっ、と頭上で音がして、ミノマダムたちが一斉に落ちてきた。

その中で先頭にぶら下がっているのは、昨日殴り込みに来たあいつだ。

「な、なんですの!? お願いですから、木は折らないでくださいまし!」

甲高い声で焦り気味に言ってくる。

嘘を言われては困るので、ここは悪いと分かっていても威圧せざるを得なかった。

「……場合によっては折るかもしれねえな?」


あからさまにミノマダムの顔つきが変わった。

恐怖と敵意が混ざったような表情で俺を睨みつけてくる。

「っ……!! 何の用ですの!?」

「安心しろ、ちょっと聞くだけだ。……グレイシアが居なくなったのは、お前らの仕業か?」

「グレイシア? 私たちは昨日以来手は出していませんけど?」

「本当、だな?」

「えぇ。何もしていませんわ。そうでしょう、皆様方!」

後ろからどよめきにも似た、たくさんの返答が返ってくる。

中にはミノムッチの子供もいたので、嘘である可能性は低いだろう。

「……ふん、そうか。ならいい」

何か余計なことを言われる前に、俺はその場を立ち去ることにした。


「チッ、何処に行きやがった……!」

居るはずもないのに、その辺の草むらを手当たり次第にかき回して走る。

当然見つかるわけもない。

と、その時、木々の奥から何やら楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

木をたわませてその間を覗くと、数匹の子供たちがが柔らかい泥の地面にできた二本のくぼみの中で楽しそうに遊んでいる。

それが何故か気になった。

仔細に観察するため子供たちの前に躍り出た。

驚いた子供たちは腰を抜かしたのかその場から動かずに大きな声で泣き始めた。

そんなことには構わず、俺は怪しいくぼみに顔を近づける。

深さは小さい子供が入って遊べるくらいでそう深いわけではない。

だが、二本のくぼみが全く付かず離れず走っていて、しかも、終わりが見えない程に前へ前へと続いている。

こんな跡、野生ポケモンの生活の中で付くだろうか。

どうもこの跡が気になったため、このくぼみに従って走ってみることにした。


 ◇ ◇ ◇ 

目が覚めると、私は洞窟にいなかった。

かと言って、知らない場所かと言われるとそうではない。

――もう二度と来たくなかった場所ではあるけれど。

「おっと、起きたか。寝てる途中に殴るのもいいが、一発目から苦しめたいからなァ」

底冷えのするような、不気味な声が降って来る。

その音源をキッ、と鋭く睨みつける。

「あァ? 反抗してんじゃねえ、よッ!」

いきなり飛んで来た爪先の一撃。

ずっと身構えていなければ、まともに受けていただろう。

「……しあっ!」

反撃のれいとうビームはしかし、寝ながら打ったせいで男の手首にしか当たらなかった。

しかも、それは男がつけている白の腕輪を凍らせただけだったため実質男に害はない。


「チッ、後で溶かすの面倒だろうが!」

カシャカシャっ、と凍った腕輪を外すと、重量感のあるそれを私へ投げつけてきた。

体を跳ねさせて、なんとか避ける。

「お前は何もしないで蹴られてりゃいいんだよッ!」

お腹へと飛んでくる靴。

とっさに近くにあった腕輪でガードする。

「っつ……返しやがれ!」

腕輪にまともにぶつけて足の指を痛めてしまった男は、しゃがみこんで腕輪を取り返そうと引っ張ってくる。

お互いに引っ張り合えば、当然勝機は男にある。

このままでは負けてしまうと踏んだ私は男の手をどかすべく、そのお世辞にも綺麗とは言えない手に牙を立てた。

「……っだぁッ!!?」

奇声とともに男の手が慌てて離れていく。

口の中に不味い血の味がかすかにして、胃酸がせり上がってきた。


なんとか吐き気をこらえて、作れた一瞬の隙に立ち上がろうとした私だったが、

「ッテメェ……調子乗ってんじゃねえぞ!」

男の足が、頭に降ってきて押さえつけられてしまう。

私は車に轢かれたケロマツのような格好で地面に押し付けられた。

「あの後大変だったんだからなァ、ちょっとやそっとの復讐じゃ足りねえんだよッ!」

体重をかけ、グリグリと硬い靴の底が側頭部を傷つける。

じたばたともがいてみても、男の足はビクともしなかった。

「……くはは、ははははは! 死ぬ直前までいたぶってやるからな……!」

痛みを堪えるため、腕輪に密着するように体を限界まで丸める。

(…………助けて……バンギラス……っ!)

その時だった。


 ◇ ◇ ◇ 

ひたすら、本当にひたすらくぼみは続く。

いい加減下を見て走るのに飽き飽きして来たころ。

跡が、ついに薄れ始める。

いつの間にか地面の地質は乾いたものになっていた。

――昨日大雨が降ったにもかかわらず、である。

目の前には、遠くで森の木よりも高い建物がたくさん軒を連ねている光景。

どうやら、森を出て人間の暮らす街まで来たらしい。

先ほど消えてしまったあの跡は、多分「車」とか言うやつのものだろう。

俺がまだ野生ではなかった時にトレーナーが乗っていたのだ。

ここで引き返すか、人間の街に踏み込むか、俺は一瞬迷った。

しかし、行ってみなければグレイシアがいるかどうかは分からないのだ。


山を下る道を一歩踏み出した、その時。

街の建物群の一角からまばゆいばかりの圧倒的な光がこちらへめがけて飛んできた。

思わず避けようと体をひねったが、その光線はあろうことかぐにゃりと曲がって俺の手に直撃した。

しかし、怪我もなければ痛みなどもない。

その手の中にあるのは、昨日グレイシアにもらって、今日そのまま持ってきてしまっていたあの石。

それを目の前に持ってくると――

――突如、石が光り始め、膨大なエネルギーの奔流が俺を包み込んだ。

「ぐ……ぐあぁ……っ!」

全身を痛みと共にエネルギーが駆け巡る。

しかし、その痛みは苦痛ではなかった。

痛いこと自体は辛いのだが、その中に微かな温かさ、柔らかさが含まれていて緩和してくれている。

体細胞が急激に活性化して成長していく、この感じは。

(進化、か……? 俺が……?)


そして、体が、石から出るエネルギーを全てを吸い取り終わった。

俺を包んでいたエネルギーの奔流が霧散した。

「……なんだ、これは」

呆然とする。

というのも、やはり進化に似た感触は間違いではなく、自分の体が大きく変化していた。

体表面はいつも以上に硬質化していてまるで鎧をまとったよう。

頭から肩、背中、尻尾にかけての突起が急成長して鋭く反り返っている。

青かった体の模様はエネルギーを蓄えて真っ赤に染まっていた。

何より、体の内側から経験したことのない量の力が湧き上がってきている気がする。

今ならどんなバトルにも勝てる気がした。

(とりあえず、さっきの光線が気になる。行ってみるか)

方針を固めて俺は一歩踏み出した。

ズシン……、と大地を踏みしめ、街へと走る。


 ◇ ◇ ◇ 

ピロリン、と軽快な音が響いた。

「あァ? なんだよ……」

男が携帯を弄り始める。――もちろん私を踏みつけたまま。

しばらくすると、男が訝しむように眉根を寄せてスマホをテレビに向ける。

点いたテレビでは緊急ニュースが放送されていた。

地面に顔をつけてしまった体勢だと画面は見られないものの、音声だけは聞こえてくる。

「突如市街地に現れたメガバンギラス。何故急に街へ降りてきたのか、戦闘中にしか起こらない現象であるメガシンカが何故起こっているのかなどの原因は現在調査中とのことです。今のところ被害は無い模様ですが、住民の方々は戸締りなどの対策を講じてください。繰り返します――」

バンギラス……?

思わず耳を疑った。

ほんとに、助けに来てくれた……? まさか。偶然違うバンギラスが市街地に紛れ込んだけだろう。

一瞬痛みも忘れて考えた。


しかし直後、テレビの音がブツンと切れる。

「チッ、面倒臭ェ……どうせ関係ないだろ。それより今は、こいつをもっと痛めつけてやらねぇとなァ!」

ニヤニヤと下卑た笑いを向けられ、私は背中を震わせた。

生理的嫌悪感に胃から吐き気が上がってくる。

一瞬頭から足が離れたかと思えば、即座に勢いよく落ちてくる。

鈍い衝撃。

意地で泣き叫ぶのを堪えることしかできなかった。

足が再び上がって、二撃目の準備へと入

ガッシャアアアアアアアンッ!! と。

南向きの壁一面に貼ってあった掃き出し窓が、鼓膜が破れそうなほどの破砕音を立てて割れた。

代わりにあるのは、うぐいす色の大きな影。

ドズン、と重い音を立てて侵入して来たそのポケモンは、紛れもなくバンギラスだった。


(……本当に、助けに来てくれるなんて)

夢のようだ、と私は思った。

いや、夢だってこんな都合は良くないだろう。

幸い、男はガラスが割れた音でビビって既に床に尻餅をついたまま動けなくなっている。

その隙に立ち上がろうとしたが、傷つけられすぎた脚はもはや力も入らない。

ふわり、と体が宙に浮いた。

バンギラスの顔がすぐ近くに見える。

私を回収すると、バンギラスは男にこれ以上ない敵意の眼光を突き刺した。

「ひ、ひぃ……」

横から見ている私でさえ怖いと感じるその目に、男はロクに言葉も発せなくなってしまう。

その無様な様子を尻目に、バンギラスは男の家を出た。


 ◇ ◇ ◇ 

さっきのガラスの音のせいで一気に恐怖に駆られた通行人達。

歩けば悲鳴が飛んでくる阿鼻叫喚の地と化した道路を、グレイシアを抱きかかえながら一気に駆け抜ける。

全速力で市街地を抜け、森へと突入する。

ここまでくれば、もう人間は1人もいない。

少し安堵して走るスピードを緩めたその時。

一瞬、全身を光が包んだ。

溢れるほどにあったエネルギーが一斉に抜けていく感覚。

詳しくは分からないが、一時的な強化だったらしい。


しばらく歩いていると、再びグレイシアが話しかけてきた。

「……あの、お、降ろしてくれないかしら。自分で歩けるわ」

「やめておけ。ただでさえ怪我が増えてるんだ。今くらいじっとしとけ」

「……ありがとう」

グレイシアがはにかむような表情で微笑んだ。

一輪の花が可憐に咲くような、そんな笑み。

自然に足が止まった。

「……どうしたの?」

「なぁ。さっきの、『なんでお前を助けたか』ってやつなんだが」

グレイシアの表情が一瞬で緊張感に包まれたものに変わる。

「多分――お前が、好きだ」

「…………っっっ!?」

グレイシアの水色の肌が一瞬でこれ以上ないくらいに紅潮した。

「……別に、拒否しようが構わん」

なんとなくそのまま言ってしまったが、よく考えればこんなことは突然言うことではない。

驚いても仕方がない。

「…………じゃない……」

「……な、なんだ?」

「……拒否するわけ、ないじゃないっ……!」

絞り出すようにグレイシアが言った。

その目には大粒の涙が浮かんでいる。

「……なんで泣いてるんだ?」

「な、泣いてなんかないわよ! …………いえ、その……嬉し涙よ……」

「……嬉しい?」

「なんで分からないのよ……!」

「……私も……私も、あなたが…………あなたと、同じだから……」

「……あ?」

「な、何回も言わないわよ……」

「同じっていうと……」

その先を心の中で呟いて、俺は少し安堵した。

「そうか。そりゃ良かった」

一回怒鳴ったあと、グレイシアは恥ずかしそうに目を拭いた。


はっ、と意識が急激に浮上した。

ここは――いつもの洞窟か。

脳に情報が入って来た途端、記憶が一斉に蘇った。

……とは言っても帰ってきてすぐに疲れで眠ってしまったことくらいしか思い出すような出来事なんてなかったが。

考え終わると、視界が本格的に機能し始めた。

グレイシアが目と鼻の先にいる。

つまり……一緒に寝ているわけか。

すると、今までその存在を知らなかった感情が俺を締め付けた。

それは、心が奥から温まるような。

とその時、グレイシアが目を開いた。

そのまま、眠そうな目をパチパチと瞬かせている。

しばらく、何もせずに見つめあっていた。


不意にグレイシアが微笑む。

ぱぁっ、という擬音がよく似合う、蕾が花開くようなあの笑顔。

「今、すごく楽しいわ」

「お前もか。奇遇だな」

「あら、あなたも?」

「……まぁ、な」

ぐるりと寝返りを打って、洞窟の天井を見上げる。

幸福感に似ているようで、しかし何かが決定的にそれとは違う。

しかし、自分がそれによって楽しいと感じていることだけははっきりと分かった。

「……ねぇ。こっちに向いてくれないかしら」

突然、グレイシアがそんなことをお願いしてきた。


「なんだ? 別に構わ――」

ちゅっ、と。

額に柔らかな感触が花を咲かせた。

その行為が何を意味するのかなんて、俺は知らない。

知らなかったが、何故か心臓が高鳴った。

「その顔だと、知らなそうね。これは……人間が好きな人にあ……き、気持ちを伝えるときにやることよ」

「それは、知らなかったな」

俺は自分の口角が吊り上がるのを感じた。

苦笑い以外で笑ったのは果たしていつぶりだろうか。

「あなた、笑顔、下手ね」

「……悪かったな」

案の定グレイシアにツッコミを入れられた。

笑い慣れていないのだ、仕方がない。

「私も得意ではないけれど……笑顔くらいなら」

すると、グレイシアは急に話を切った。

理由は――俺に顔を近づけるため。

「……ずっと、一緒にいて、教えてあげる…………」

囁き声。

しかし、もちろん俺の耳はその言葉を一言一句逃さなかった。

「……あぁ。よろしく、な」

2人して体をくっつけて、前方、すなわち洞窟の外へと視線をやる。

ほとんどないも同然の細い月の周りでは、それを励ますように星々が一層煌めいていた。






――――Fin.